安倍マリオをぶっ飛ばせ、あるいはぼくらの未来への責任
[2017/03/17追記: 森友学園問題がメディアでは取り沙汰されていますが、それも所詮「共謀罪」法案通過のための隠れ蓑にすぎないのかと思われる昨今です]
巷では、安倍総理演ずるところの安倍マリオなるキャラクターが話題を呼んでいるようです。
[2016/12/21追記: 安倍マリオもすっかり「昔」の話になってしまいました]
どこかチャップリンの「独裁者」を思わせないこともない、この「悪ふざけ」のためにブラジルのリオまでジャンボジェットを飛ばす安倍総理には、ついつい怒りも沸こうというものです。
けれど、安倍総理に対して怒ってみても、そいつはエネルギーの無駄というものでしょう。
もちろん、ぼくは安倍総理が「素晴らしい」とか思ってるわけじゃありません。
第二次安倍政権は、福島第一事故後の、環境汚染、経済的後退、政治的混迷の中から生まれてきた、「危険」な「全体主義」政権だと思っています。
とはいえ、その政権の旗印になっている安倍晋三氏という個人に対して、いくら怒りをぶつけたところで、エネルギーの無駄遣いにしかならないだろうから、「せっかくのそのエネルギーを有効利用したらいいじゃないか」と思うのです。
沖縄高江でのヘリパッド建設の強行を見ても、経産省前の反原発テント撤去を見ても、安倍政権のやっていることは、弱者や少数者の権利をないがしろにする「全体主義」的政策にほかなりません。
しかし、安倍総理と言えども、個人として好き勝手にやっているわけではないでしょう。
安倍総理にしてみれば、合州国の意向に沿う範囲内で、彼なりに国益を考えてやっているのでしょうし、けれども、えげつないやり方をきちんと見れれば、その政策を批判することは当然です。
けれども、「怒りの罵声」を浴びせるようなやり方をいくらしたところで、あちらとしては痛くも痒くもないでしょうし、総理大臣自らが国会で野次を飛ばすという、相手の情けないレベルにまでこちらの立場を引き下げることにしかなりませんから、決してほめられるやり方とは言えないでしょう。
結局のところ、怒りのエネルギーを直接相手に向けても葛藤は深まるばかりなのです。
かといって、怒りの感情を押し殺すことにも益はありません。
ですから、怒りという自然な気持ちを押し殺すことなく、その怒りのエネルギーを、現在の混沌とした状況に変化をもたらすような、創造的表現に変換して放出することこそが重要なのです。
たとえば、過去二度の参院選に立候補して、音楽を使った「選挙フェス」という手法で注目を浴びたミュージシャンの三宅洋平氏のようなやり方は参考になるでしょう。
また、社会運動家の田中優氏は「危機感を煽ってする運動は長続きしない、運動は楽しめるもの、希望の持てるものであるべきだ」と言っています。
一言で、反基地、反原発と言っても、実際の行動にはいろいろなものがあります。
現場に行って、非暴力の直接行動を取ることも大切ですし、直接参加ができないなら、活動を支援するために募金を集めることもできます。
また、真正面からそのことを主張するだけでは変えがたい社会の現実に対して、別の選択肢を試し、提示するという方法もあります。
原発推進の姿勢を変えない電力会社の電気は使わず、電気は自給してしまおうというオフグリッドという試みがあります。今の段階ではコスト的に難しい部分がありますが、太陽光で発電し、蓄電をすることで、電力会社の電力網と接続しないでも普通に電気製品が使える時代が、もうそこまで着ているのです。
こうしたオフグリッドのやり方が一旦普及し始めれば、原子力のような巨大技術は一気に時代遅れのものとなってしまうかもしれません。
☆田中優氏のオフグリッドの実践についてはこちらをどうぞ。
[優さんメルマガ 第580号所収『政府の政策に左右されない暮らし』]
今、大切なのは、思い込みによって自分で自分を縛っている、ぼくたち一人ひとりが、その意識を変えていくことではないでしょうか。
なんとなく流されて生きてきて、いつの間にか狭い日本に原発が立ち並んでしまっている。あるいは生まれたときから、原発だらけの日本で、気づいたときには福島で事故が起きていた。
そうした現実から逃げることなく、冷静に向かい合い、昨日までの自分とは違う意識で、問題解決の糸口を探っていくことが必要なのではないでしょうか。
今から85年前の1931年の9月18日の満州事変をきっかけとし、1945年の8月15日の敗戦を迎えるまで、日本は「集団狂気」的国策を取り続けることになりました。
そして、その渦中にあるとき、ごく少数の冷静な人たちを除けば、その「狂気的」性質から逃れることはできなかったのです。
現在の日本の「全体主義」的状況は、かつての「集団狂気」と似通った段階にあると思われます。
しかし、その渦中にあるぼくたちは、過去の人たちと同様、その「異常さ」を冷静に捉えることは難しい状況にあります。
一方、ぼくたちには、ネットワークの発達による草の根レベルでの情報伝達という、新しい力があります。
しかし、その力を有効に使うための方法論がまだまだ足りないのではないでしょうか。
1945年に、合州国の意向もあって民主憲法を取り入れた日本は、その民主憲法が十分根付くことはないまま、71年の歳月をかけて徐々に変容を遂げ、今まさに「全体主義」国家に逆戻りしつつあります。
今急激に方向を変える流れの中で、また、溢れかえる情報の中で、何が正しく、何がおかしいのか、確かな基準を持って判断することは困難を極めます。
この混沌とした状況の中、「全体主義」に取り込まれることなく、自らの良心を保ち続けることも、また困難なことではありますが、未来への責任というものを考えるとき、ぼくたちがぜひとも心がけなければならないことだと考えます。
今すぐには事態は変えられないかもしれません。
けれども、71年前に蒔かれた種をここで絶やしてしまうことなく、大切に支え、育てていくために、今までの常識の枠組みを取り払って、新しい方法論を模索しながら、日々を生きていくことこそが、今を生きるぼくたちには求められているのではないでしょうか。
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