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迷想三昧01 クアラルンプルにて

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みなさん、こんにちわ。 ぷちウェブ作家のとし兵衛です。 今日はマレーシアの首都クアラルンプルに来ています。 ちなみにマレーシアの人はこの街をKL(ケーエル)と呼びます。 ぼくの頭の中の地図では、マレーシアはインドとタイの中間にあります。 イギリスの植民地となっていた歴史から、マレーシアには南インドのタミルの人たちが結構住んでいて、インドのお寺も多いんですよね。 そうしたインドに対する近さを感じる一方で、高速道路は整っているし、長距離バスは立派だし、先進的な面もあり、そういった点ではインドやタイより先進工業国に近い充実を感じます。 ちなみにタイは仏教国ですが、カンボジアを経由してヒンドゥー教の影響も強く、宗教的にはむしろインドに近い面もあります。 というわけで、インドが日本から、文化的にも距離的にも遠いのは確かなのですが、タイとマレーのどちらが遠くて近いのか、ここはほんとは微妙なところです。 けれども、雲南起源の照葉樹林文化を仮定して、日本とタイはかなり近いのだと、ここではごく大雑把に主張しておくことにします。 さて、そんなこんなで、アジアの各国を漂流中の私ですが、南インドのタミルナドゥ州からマレーシアに戻ってきて、あらためて想うことはといえば、人間、見かけは違っても、やってることは大して違わないんだよなぁ、みたいなことだったりします。 起きて眠って、飯を食って糞をして、働いて遊んで、家族を作ったり作らなかったりして、やがて歳をとって死んでゆく。 当たり前すぎてつまらない話ですが、大きく風呂敷を広げちゃうと、そんなくくりになってしまいますわな。 逆に言えば、そんなふうに、遠目には区別のつかないような人生であっても、近くから見れば、その人その人の、それぞれのディテールに満ちていて、ひとつひとつが掛け替えのない命なわけですから、ぼくらがこうして日々を生きていくことの意味として、そうやってこの世界の細部を刻み込み、作り上げてゆくという、神の壮大な意図とでもいうべきものを見出すことになるわけですけれども。 この世界の残酷さを知り、人の世の嘘っぱちを認め、R.D.レインの過激な告発も織り込んだ上で、ゴータマさんのように慈悲の気持ちも大切にし、けれどもカルロス・カスタネダの書くように非情という立ち位置も視野に見据えて、ついつ...

バンコクの安宿で知覚の扉を浄める

タイのバンコクの安宿で、少しの時間を見つけて、これを書いている。 今はまだ昼前だが、夕方四時過ぎ発の夜行バスで南の街ハートヤイに向かう。 所要時間12時間以上。 ぼくにとって、種田山頭火は気になる存在で、アルコール依存で人格的にも「破綻」している彼が、それでも人に救われ、仏教の網にかろうじて引っかかって、妻子は捨てた乞食坊主だが、道端で死ぬことはなかったことの因縁。 きちんと救われたわけではない、絶望手前の、人生の終着点。 [流浪の俳人山頭火については、 前山 光則「山頭火を読む」 など参照] それを社会からのはみ出しととらえれば、山頭火も立派なアウトサイダーということになるが、もともとの コリン・ウィルスンの「アウトサイダー」 に書かれている人々は、まったくといってよいほど救いがない。幸せなアウトサイダーであるウィリアム・ブレイクを除いて。 「村八分は、二分はつながっていて救いがある」という言い方がある。つながりがあるから踏ん切れなくなるのは、日本的苦しみのもとだが、完全に切られるよりは、救いに近いのか。 そして、ブレークといえば、その詩から オルダス・ハクスリーが題名に取った「知覚の扉」。 ハクスリーの「知覚の扉」は、幻覚剤メスカリンの体験記にして、サイケデリクスのバイブル。 ブレークのもとの詩 の一節は、「知覚の扉が浄められるならば、すべての物事は、ありのままの姿を人に現すことになるだろう、無限というその姿を」というもので、つまり、ハクスリーが言うことには、サイケデリクスは、インスタントに知覚の扉を浄めてくれるということになる。そのとき眼前に現れるその無限というものが、天国なのか、地獄なのかは、誰にも予め言い得ないことなのだが。 そしてさらに「知覚の扉」(The doors of Perception) から取られたバンド名が、アメリカのロックバンド、 ザ・ドアーズ というわけであり、ザ・ドアーズの「ジ・エンド」が鳴り響く中、フランシス・コッポラによって、ぼくらは ベトナムの泥沼 を見せつけられるはめになったのだ。 山頭火の母との関係の「失敗」。それは決して彼の責任とは言えないが、その「母子関係の失敗」こそが、この世界の絶望の一因なのだと、とりあえず強引に述べて、この項は終える。 [なお、このページのリンクからアマゾン...

いつまでも夏のままで

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今ぼくは南国タイにるので、夏がいつまでも続いています。 ほんとうはタイの場合、南北に長いし、森深いところや、少し山がちのところなど、冬はまあまあ寒かったりもするのですけれど、ここは、あえて大雑把にくくってしまって、夏がいつまでも、と。 で、ぼくの場合、どちらかというと寒いのは苦手です。 寒くて縮こまってるのは、気が滅入ります。 若い頃は寒い中スキーをしたりもしましたが、そういう非日常はともかく、日々の暮らしが寒いのは、元気がなくなるし、ちょっと苦手ってことで。 でも、東京あたりで冬場乾燥してるのと、スキー場にいるときや、東広島に住んでたときに感じた湿度のある寒さは、また違うんですよねぇ。 ですが、まあ、その辺りの話は置き去りにして、夏の話に行きます。 インドのバラナシで、宿の人も参るほどの連日45℃の日々。 うちのおくさんも参ってたけど、ぼくは割と快適でした。 食欲はなくなって、肉、魚はもともと食べないのに加え、炭水化物もほとんどゼロ。野菜スープとスイカで過ごしましたが、どっちも絶妙においしくて。 野菜スープというのは、ニガウリ、トマト、玉ねぎにハーブとスパイス、てな感じのものを自分で鍋で煮るだけですが、これが毎日、毎食、ほんとにおいしいんですよね。 45℃マジックです。 それから、スイカはそのまま食べるのももちろんおいしいんですが、スイカとみかんのジュースというのがまたおいしくて。 ミックスジュースとか食べ合わせについては、いろいろあるんですけど、食べ物にあんまりこだわりがなくて、披露できるほどのまとまりがないので、今はこのくらいにしておきます。 そういうわけで、みなさんも夏バテの時は、ニガウリ入れた野菜スープ試してみてください。 以上、いつまでも夏のまま、季節外れの男、とし兵衛がお送りしました。 [初出、https://note.mu/tosibuu/n/nbccd88f01af3 (一部改稿)]

たとえばタイの南の島の浜辺で

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[写真はタイの渡し船に乗るバイク] たとえばタイの南の島の浜辺で、マジックマッシュルームを摂ったあの日。 多くの人は、この体験を得ることができないのだと、うぬぼれて有頂天になっていた愚か者のぼく。 キノコにはいろいろなことを教わったし、麻の穂の知恵にも感謝している。 友だちにほんの触りだけ手ほどきしてもらった中国拳法がきっかけになって、呼吸というものに興味を持ち、ヨガやフェルデンクライスやヴィパッサナーも体験して、ようやく、自分の愚かさと向き合うところまでこれたんだな。 若い頃から作家にでもなれたらな、という甘ったるい夢を捨て切れずに、五十も過ぎ、ネット上で若い人たちの活躍やら、努力やらを見ていれば、いい加減あきらめたらいいようなものだが、あきらめればそこで終わりなので、あるかどうか分からぬ可能性を信じることにして、とにかくこうして言葉を並べてみる。 フロリンダ・ドナーの「シャボノ」の翻訳も、まだもう少し先が長いのだが、一応目鼻はついたことにして、今は寝かせてある。 この翻訳を仕上げて、どこかから出版してもらえたら、それでぼくの人生はよしとしようと思っている。 コリン・ウィルスンの「アウトサイダー」 のことが、心に引っかかっている。 それは、あそこに書かれている、社会からはみ出したアウトサイダーというものが、すべて母親との関係性に「失敗」を抱えていると思うので。 カミュの「異邦人」はずばりで、逆にあの中で一人だけ幸福なアウトサイダーであるブレイクは、母親の愛に恵まれていたはずだと、決めつけている。 ようするにぼくが、母親との関係性で「失敗」したはみ出し者だということにすぎないのだけれど。 今回はまとまりのつかないまま、これで終わり。 [なお、このページのリンクからアマゾンに行ってお買い物していただくと、購入代金の数%がこのページの作者の収入となります。記事を読んでおもしろいと思っていただけたら、応援がてらの購入、よろしくお願いします]

ヴィパッサナー随想 #6 -- 心の底から湧き上がる気づき

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[写真はプシュカルの夕焼け] みなさん、こんにちわ。 ぷちウェブ作家のとし兵衛です。 #4 では、10日間の瞑想コースの1日目から、頭の中のひとり言を止める努力を放棄した、ぼくのいい加減な迷想術について書きましたが、そんな不真面目なやり方でも、それはそれなりに意味があったので、そのことを書いてみます。 ぼくのように、頭の中の言葉を止めることを放棄してしまうのは、ちょっと極端なやり方かもしれませんが、考えごとをしていることに気づいたときに、呼吸に意識を戻しても、いつの間にかまた考えている、というのは、誰にでも起こることです。 そして、これが例えば週に1回、1時間の坐禅、というようなものだったら、1時間考えごとをしておしまい、となりかねませんが、10日間のコースでは、1日10時間は座りますので、全部で100時間も座ることになります。 考えることが得意な方なら、100時間考え続けられるかもしれませんが、少なくてもぼくの場合、そうはならず、必ずしも意識的に考え続けるわけでもないので、うすぼんやりと、あちらからこちらへ、こちらからあちらへと、とりとめもなく考えや記憶が連なっていくようなことになります。 これを全部で100時間もの、まとまった時間続けていると、ずっと忘れていた子どもの頃の記憶が蘇ってきたり、長い間会っていない友だちのことを思い出したり、親に対して感じていた愛憎表裏一体の感情に気づいたりと、普段の暮らしの中ではなかなか体験することのできない、自分の心の奥底に澱(おり)のようにたまっていたものが、意識の上澄みまで浮かび上がってきたりするわけです。そして、うまくいけば、今までなかった気づきが得られ、さらには淀んでいたものが浄化されていったりする場合もあるんですよ。 ぼくの場合は、初めての10日間のコースで、そんなふうな気づきがいくつかありましたので、ひと言で瞑想とか、坐禅とか言いいますが、量の違いが質の違いにつながることをまざまざと思い知らされた次第です。 ただこれは、ぼくの場合、いいほうの効果があったというだけのことで、なかには逆に、思い出したくもない辛い記憶を思い出してしまって、打ちのめされてしまうような方もいるのではないかと想像します。 ですから、誰にでもおすすめできるものではありません。 また、終わった直後は、いい...

ヴィパッサナー随想 #5 -- 意識は集団催眠のための道具である

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[写真はバンコクの街角のシヴァ神] みなさん、こんにちわ。 ぷちウェブ作家のとし兵衛です。 今回は少しヴィパッサナー瞑想の話からは横道にそれて、人間の意識という不思議な現象について書いてみます。 ヴィパッサナーは仏教の瞑想法であり、世界を正しく見るための練習であることは、前に書きましたが、仏教で言う「正しく見る」ということの中に、「無我」という考えがあります。 「無我」とは文字通り、「自分というものはない」ということです。 「そんなこといっても、自分はここにあるよ」と当然思われるでしょう。 けれども、例えばヴィパッサナーなどの方法によって、言葉を減らしていって、実際に起こっていることを、こまかく見ていくと、「自分」だと思っているものが、ただ、言葉でラベルを貼っていただけのものに過ぎず、実は存在しないことが最終的には分かるのだと、仏教では言うわけです。 分かりやすいところからいきますと、あなたが大切にしている茶碗があって、家族がそれを割ってしまったとします。 あなたはがっかりして悲しい気持ちになったり、怒りが湧いてきたりします。 「自分の茶碗が割れてしまった!!」というわけです。 けれど一体「自分の茶碗」というのは何なのでしょうか。確かにそこに「茶碗」はありました。その「茶碗」は割れてしまいました。けれど、そこにくっつく「自分の」というラベルは、あなたがそう思い込んでいるというだけのことではないでしょうか。 毎日毎日、これは「自分の」茶碗だ、と思って使っていたから、そう思い込んでいるだけのことで、ほかの家族も知っているとか、法律上はどう、ということも含めて、すべてはあなたや、家族や、世間の、思い込みにすぎないのではないでしょうか。 これは哲学的な議論ではなくて、ただあなたが、どう感じ、どう考え、どう行動するか、という話です。 「自分の」という観念がなければ、ただ「茶碗」が割れただけですから、あなたは悲しみもせず、怒りもせず、「茶碗が割れたな」と認識するだけのはずなのです。 こうした見方が、あなたのすべての物の見方において徹底したとき、「自分」は消え、「執着」も「嫌悪」も消え、心の落ち着きだけが残る、というのが仏教のもともとの考え方です。 さて、ここで、脳科学の話になりますが、スーザン・ブラックモアという作家の...

ヴィパッサナー随想 #4 -- 不真面目でいい加減なぼくの迷想術

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[写真はインドのラーマ神、ラジャスタン州プシュカルにて] みなさん、こんにちわ。 ぷちウェブ作家のとし兵衛です。 2011年の暮れにインドのプシュカルで、「物事を正しく見るための瞑想法」ヴィパッサナーの10日間のコースに参加した私ですが、センターに着いたその日は、軽くオリエンテーションを受けて、夕方1時間ほど座ります。しかし、これはまだほんの序の口で、翌日から第一日目としてコースが本格的に始まります。 朝は鐘が鳴り、四時に起きます。三十分で身支度してホールへ向かいます。 プシュカルのセンターは小さなところなので、そのときの男性の参加者は7名、女性は14-15名だったでしょうか。他のところでは、数十人から、数百人の規模だったりするようです。 この日から、10日目までは基本的にお喋りはできません。ノートを取ったり、本を読むことも許されません。 余計な言葉を使うことが、心の落ち着きを失い、正しく見ることを邪魔するからです。 「言葉を使わなくちゃ、考えられないんだから、正しく見ることもできないじゃないか」と思われるかもしれませんが、少しばかり瞑想を体験して思うことは、ぼくらは言葉を使ってラベル付けして世界を見ることで、いわば便利に分かりやすく世界を体験しているのだなということです。けれどそれは便利だけれど、往々にして、ラベルに目をくらまされて、その下に隠れているありのままの現実を見失うことにつながってしまうようです。 そこで、ヴィパッサナーでは、まず、呼吸に意識を集中することにより、結果として、頭の中のひとり言を減らしていくようにします。 禅でも言われる無念無想というやつです。 けれども、ひと言で無念無想とは言いますが、そんなことが、言われてぱっとできるなら、ヴィパッサーの瞑想センターなんて、必要もないですよね。 というわけで、一日目から三日目までは、とにかく自分の息に意識を向けることの練習です。 朝6時半からまず2時間座ります。 それまで自分では1時間ほどしか座ったことがありませんから、この2時間がまず、どうにも長いのです。 そして、しばらくは息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、とそれだけを繰り返していますが、気がつくと何やら頭の中で考えています。 ふとそのことに気づいて、また呼吸に意識を持っていきます。 け...