ヴィパッサナー随想 #6 -- 心の底から湧き上がる気づき

[写真はプシュカルの夕焼け]
みなさん、こんにちわ。
ぷちウェブ作家のとし兵衛です。

#4 では、10日間の瞑想コースの1日目から、頭の中のひとり言を止める努力を放棄した、ぼくのいい加減な迷想術について書きましたが、そんな不真面目なやり方でも、それはそれなりに意味があったので、そのことを書いてみます。

ぼくのように、頭の中の言葉を止めることを放棄してしまうのは、ちょっと極端なやり方かもしれませんが、考えごとをしていることに気づいたときに、呼吸に意識を戻しても、いつの間にかまた考えている、というのは、誰にでも起こることです。

そして、これが例えば週に1回、1時間の坐禅、というようなものだったら、1時間考えごとをしておしまい、となりかねませんが、10日間のコースでは、1日10時間は座りますので、全部で100時間も座ることになります。

考えることが得意な方なら、100時間考え続けられるかもしれませんが、少なくてもぼくの場合、そうはならず、必ずしも意識的に考え続けるわけでもないので、うすぼんやりと、あちらからこちらへ、こちらからあちらへと、とりとめもなく考えや記憶が連なっていくようなことになります。

これを全部で100時間もの、まとまった時間続けていると、ずっと忘れていた子どもの頃の記憶が蘇ってきたり、長い間会っていない友だちのことを思い出したり、親に対して感じていた愛憎表裏一体の感情に気づいたりと、普段の暮らしの中ではなかなか体験することのできない、自分の心の奥底に澱(おり)のようにたまっていたものが、意識の上澄みまで浮かび上がってきたりするわけです。そして、うまくいけば、今までなかった気づきが得られ、さらには淀んでいたものが浄化されていったりする場合もあるんですよ。

ぼくの場合は、初めての10日間のコースで、そんなふうな気づきがいくつかありましたので、ひと言で瞑想とか、坐禅とか言いいますが、量の違いが質の違いにつながることをまざまざと思い知らされた次第です。

ただこれは、ぼくの場合、いいほうの効果があったというだけのことで、なかには逆に、思い出したくもない辛い記憶を思い出してしまって、打ちのめされてしまうような方もいるのではないかと想像します。

ですから、誰にでもおすすめできるものではありません。

また、終わった直後は、いい経験をしたと思っても、そのあと、奨められている毎日の瞑想をしなければ、元の木阿弥に簡単になってしまう場合がほとんどと思いますので、この効果を持続するというのは生半可なことではありません。

実際のところ、ぼくは毎日どころか、普段自分ではほとんど瞑想などしませんので、そのとき気づいたはずのことも忘れ果てて、この5年あまり毎日呆然と生きてきただけです。

そうは言っても、昨年の4月に2回目の10日間のコースに出て、少しは気づきが深まったような気もしているんですが。

というようなところで、具体的な話は、まだ1日目の最初の2時間の話しか書いていないわけですが、このままでは「トリストラム・シャンディ」ばりに、いつになっても終わりが来そうもありませんので、このシリーズは一旦ここまででおしまいにします。

また、気が向けば、続きなり、関連する話なり書いてみたいと思います。

以上、今日もご精読ありがとうございました。

[なお、ゴエンカ氏方式のヴィパッサナーについては、次の本がありますので、よろしかったらどうぞ]
ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」(春秋社1999)

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