バンコクの安宿で知覚の扉を浄める

タイのバンコクの安宿で、少しの時間を見つけて、これを書いている。
今はまだ昼前だが、夕方四時過ぎ発の夜行バスで南の街ハートヤイに向かう。
所要時間12時間以上。

ぼくにとって、種田山頭火は気になる存在で、アルコール依存で人格的にも「破綻」している彼が、それでも人に救われ、仏教の網にかろうじて引っかかって、妻子は捨てた乞食坊主だが、道端で死ぬことはなかったことの因縁。
きちんと救われたわけではない、絶望手前の、人生の終着点。
[流浪の俳人山頭火については、前山 光則「山頭火を読む」など参照]

それを社会からのはみ出しととらえれば、山頭火も立派なアウトサイダーということになるが、もともとのコリン・ウィルスンの「アウトサイダー」に書かれている人々は、まったくといってよいほど救いがない。幸せなアウトサイダーであるウィリアム・ブレイクを除いて。

「村八分は、二分はつながっていて救いがある」という言い方がある。つながりがあるから踏ん切れなくなるのは、日本的苦しみのもとだが、完全に切られるよりは、救いに近いのか。

そして、ブレークといえば、その詩からオルダス・ハクスリーが題名に取った「知覚の扉」。
ハクスリーの「知覚の扉」は、幻覚剤メスカリンの体験記にして、サイケデリクスのバイブル。

ブレークのもとの詩の一節は、「知覚の扉が浄められるならば、すべての物事は、ありのままの姿を人に現すことになるだろう、無限というその姿を」というもので、つまり、ハクスリーが言うことには、サイケデリクスは、インスタントに知覚の扉を浄めてくれるということになる。そのとき眼前に現れるその無限というものが、天国なのか、地獄なのかは、誰にも予め言い得ないことなのだが。

そしてさらに「知覚の扉」(The doors of Perception) から取られたバンド名が、アメリカのロックバンド、ザ・ドアーズというわけであり、ザ・ドアーズの「ジ・エンド」が鳴り響く中、フランシス・コッポラによって、ぼくらはベトナムの泥沼を見せつけられるはめになったのだ。

山頭火の母との関係の「失敗」。それは決して彼の責任とは言えないが、その「母子関係の失敗」こそが、この世界の絶望の一因なのだと、とりあえず強引に述べて、この項は終える。

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