ヴィパッサナー随想 #5 -- 意識は集団催眠のための道具である
[写真はバンコクの街角のシヴァ神] みなさん、こんにちわ。 ぷちウェブ作家のとし兵衛です。 今回は少しヴィパッサナー瞑想の話からは横道にそれて、人間の意識という不思議な現象について書いてみます。 ヴィパッサナーは仏教の瞑想法であり、世界を正しく見るための練習であることは、前に書きましたが、仏教で言う「正しく見る」ということの中に、「無我」という考えがあります。 「無我」とは文字通り、「自分というものはない」ということです。 「そんなこといっても、自分はここにあるよ」と当然思われるでしょう。 けれども、例えばヴィパッサナーなどの方法によって、言葉を減らしていって、実際に起こっていることを、こまかく見ていくと、「自分」だと思っているものが、ただ、言葉でラベルを貼っていただけのものに過ぎず、実は存在しないことが最終的には分かるのだと、仏教では言うわけです。 分かりやすいところからいきますと、あなたが大切にしている茶碗があって、家族がそれを割ってしまったとします。 あなたはがっかりして悲しい気持ちになったり、怒りが湧いてきたりします。 「自分の茶碗が割れてしまった!!」というわけです。 けれど一体「自分の茶碗」というのは何なのでしょうか。確かにそこに「茶碗」はありました。その「茶碗」は割れてしまいました。けれど、そこにくっつく「自分の」というラベルは、あなたがそう思い込んでいるというだけのことではないでしょうか。 毎日毎日、これは「自分の」茶碗だ、と思って使っていたから、そう思い込んでいるだけのことで、ほかの家族も知っているとか、法律上はどう、ということも含めて、すべてはあなたや、家族や、世間の、思い込みにすぎないのではないでしょうか。 これは哲学的な議論ではなくて、ただあなたが、どう感じ、どう考え、どう行動するか、という話です。 「自分の」という観念がなければ、ただ「茶碗」が割れただけですから、あなたは悲しみもせず、怒りもせず、「茶碗が割れたな」と認識するだけのはずなのです。 こうした見方が、あなたのすべての物の見方において徹底したとき、「自分」は消え、「執着」も「嫌悪」も消え、心の落ち着きだけが残る、というのが仏教のもともとの考え方です。 さて、ここで、脳科学の話になりますが、スーザン・ブラックモアという作家の