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本の紹介: アーノルド・ミンデル「大地の心理学」、プロセスワークと瞑想の幸せな融合

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アーノルド・ミンデルは、ユング派の心理学を発展させたプロセス指向心理学 (プロセスワークとも呼ばれます) の創始者で、アメリカのセラピスト、グループワーカーです。 プロセスワークは、 ○人間の無意識が体の状態や様々な行動に現れることに注目し、 ○人間の行動を、意識のレベル(一次プロセス)と無意識のレベル(二次プロセス)の二つの重ね合わせとしてとらえ、 ○この二つのレベルにおける、多様な欲求間の葛藤を意識化することによって、統合的な人生を生きるための方法を提供してくれるもの と言えましょう。 日常的にわたしたちは、他者との関係性においてさまざまな葛藤を感じています。 夫婦の間で、あるいは親子として、そして友だち同士や、仕事上の人間関係の中で、自分の思い通りにならないことや、思いもよらない問題に直面します。 そうした「問題」について、わたしたちは普通、表面的な部分だけを見て、言葉のレベルで問題をとらえて、それに対処しようとしてしまうことが多いのですが、そうした「浅い」反応ではうまく対応ができない事態というものもしばしば生じるものです。 本書では、自分の無意識にアクセスすることによって、そうした人生におけるいろいろな「問題」に対応するための、自分一人でもできるセルフワークのやり方が、プロセスワーク的な考え方とともに提示されています。 *  *  * 邦訳のタイトルは「大地の心理学」となっていますが、原題は "Earth-based Psychology" 、「大地に根ざす心理学」くらいの意味です。 ここで「大地」という言葉が使われていることによって、 「わたしたち人間は、大地の存在なしには生きることもできない」 という、先住民族の社会においては、当たり前に意識されていることが、現代社会を生きるわたしたちにとっては、ともすれば忘れられがちになっている現実に思いをはせることができます。 ミンデルは、先住民族の世界観や、そこでのシャーマニズムの役割に大きな意味を見出し、そうした太古から続く人類の叡智を、現代的な心理学の枠組みの中で新しい光を当てることで、わたしたちの日々の暮らしの中でその知恵を活かす方法を教えてくれます。 この本には「パス・アウェアネス path awareness (道の自覚)...

そしてぼくはネパールに行った - 意識のメタモルフォーゼ 01

ぷちウェブ作家のとし兵衛です。 お釈迦さまの生誕地ルンビニの、安宿のベッドに寝そべりながらこれを書いてます。 こちらは、ネパール時間で午後五時半(日本より三時間十五分遅れなので、日本はとっくに夜ですね)、まだ外は明るいです。 五十二歳にして定職を持たないぼくは、いま奥さんと二人、アジアをゆらゆらと漂っているのですが、しばらく前から奥さんはヴィパッサナ瞑想の十日間コースに行っているので、今は気楽な一人暮らしです。 それをよいことに昼間からビールを飲んで、心地良くも気怠い日々を過ごしています。 さて、今回のシリーズでは、そんなぼくの最近の日々に置きつつある、「風変わりな変化」について書きたいと思うのです。 その変化というのは、「意識のメタモルフォーゼ」とでも呼ぶべきもので、ある種の昆虫が、幼虫から、蛹(さなぎ)になり、成虫になるように、個体自体は保たれながらも、劇的な変身を遂げたことが感じられるような不思議な体験なのです。 そんなふうに書くと、オカルトめいた説明に思われるかもしれませんが、これは変性意識状態として知られるものが、一段階上に上がるようなことであって、現代の脳科学の範囲内においても、十分説明しうるものだろうと、仮説を立てています。 この劇的といってもいい変化が起こり始めたのは、この十日間ほどのことなのですが、これがどうして今起こったのかということを説明するには、ぼくが今までどんな人生を送ってきたのかを知ってもらう必要があります。 というのは、この変化は、ぼくという「一人の人間の中で起こった」話ではなく、「周りの人や物との相互作用を通して起こった」ものだと考えるからです。 そこで、まずはぼくの高校・大学時代から話を始めたいと思います。   *  *  * ぼくは、高校生の頃から心理学に興味を持ち始めたのですが、高校の友だちの影響で、大学ではコンピュータのソフトウェアの勉強をしました。 心理学に興味を持ったのは兄の影響で、兄は実際、大学で心理学を学びました。 けれどもその兄を見ていて、心理学では大学を出たあとに大変そうだなと打算的に考えて、もう一つの興味の対象のコンピュータを学ぶことにしたのです。 こまかい話をすれば、ぼくが大学でコンピュータを学ぶことになったのには、ある日たまたま旧友にばったり会ったこ...

偶然と奇跡の物語、「あーす・じぷしー」って実話なの?

今日は[ 「あーすじぷしー」 ]という本の紹介を兼ねて、この話は「ほんとに実話なのか」ということについて、書いてみようと思います。 「あーすじぷしー」は大分出身の若い女の子まほが、一般社会の普通の枠組みの中で生きることに違和感を感じて、自由でワクワクする人生を送り始めるまでの実話の物語です。 専門学校を卒業して憧れの会社に就職して服飾デザイナーになったのに、なぜか充実感を感じられないまほは、一年足らずでやめ、東京の専門学校に入り直します。 そうして一人暮らしを始めた東京で、偶然が導く人や出来事の連続の結果、「デザイナーになる」という過去の夢を捨て、彼女はペルーへと導かれます。 そして、ペルーで体験する「聖なる真実アヤワスカ」のビジョンこそが、この物語の圧巻なのですが、その辺りについては、次の記事にもう少しくわしく書いていますので、ご覧ください。 [ [本の紹介]不思議な双子の物語、Naho & Maho「あーす・じぷしー」 ]   *  *  * さて、この本の話を読んで、 「これ、ほんとに実話なの?」 と思う方は少なくないように思います。 なにしろ、東京に出てから、彼女がペルーに導かれていく道行きというものが、普通にはありえないような偶然の連続に満ちているからです。 就職の内定を辞退し、東京で出会った友だちの影響から、海外に旅すること決めた彼女の中には、海外旅行に対する具体的なビジョンはありません。 どこに行こうかと考えあぐねている彼女に、友だちのすすめてくれた一冊の本が答えをもたらします。 シャーリー・マクレーンの「アウト・オン・ア・リム」 という本です。この本でシャーリーは、ペルーでの神秘体験について書いており、それがシャーリーの人生の大きな転換点になるのですが、そのあまりの不思議な記述に、まほは「これは本当の話なんだろうか?」と思います。 そのことに加え、シャーリーの誕生日がまほと同じであることが「大きな前兆」となり、まほはペルーに行くことを決心するのです。 そして、ペルーがどこにあるかもよく分からないまま、借金をまでしてペルー行きの航空券を買ってしまいます。 旅の準備も整わないでいる彼女に、次の偶然がやってきます。専門学校の友だちの、お母さんの友だちのまきさんという人がペルーに行ったことがある...

[本の紹介]不思議な双子の物語、Naho & Maho「あーす・じぷしー」

Naho & Maho「あーす・じぷしー」 [ Kindle版 ] [ 単行本 ] この本は、「あーす・じぷしー」という名前で、世界中、気ままに旅をしながら、自由な人生を生きる実験をしている双子の姉妹、なほとまほの自伝的な物語です。 双子の物語ではありますが、実際には妹のまほが語り手であり、主人公です。まほの「そぱ」には、姉のなほがいつも寄りそいたたずんでいます。 なほとまほは双子であるがゆえに、子どもの頃には互いにテレパシー的な感覚があって、永遠あいこができました。 二人でじゃんけんをして、片方は出す役、片方は読む役。そうするといつまでもあいこを続けられたのです。 また、まほは、幽霊やお化けもよく見ていて、亡くなったおじいちゃんにも会ったことがあるような、霊感の強い人です。 そして、彼女は共感覚の持ち主であり、音や人、場所に色がついて見えていました。色とりどりの楽しい毎日を生きていたのです。 ところが大人になるにつれ、そんな感覚も消えていきます。お金のこと、就職のこと、仕事のこと、人間関係のこと、そうしたことで頭がいっぱいになるにつれて、子どもの頃の「楽しい感覚」を大事にできなくなってしまったのです。 大分出身のまほは、デザイナーになるという子どもの頃からの夢をかなえるために、専門学校に行き、大阪で就職します。けれども、憧れのブランドの会社に入ったのに、なぜか充実感はなく、一年足らずでやめてしまいます。 そして、実家に帰り、寝る時間も惜しんで働き、お金を貯め、東京の難しい洋服の学校に入り直します。そうすることで、デザイナーとしての新しい道が開けるはずだと思ったのです。   *  *  * さて、東京では何がまほを待ち受けていたのでしょうか。 それは、さまざまな、人や出来事との出会いです。 道端で運命的に出会った、同じ九州出身の若者二人。二人は、日本の枠にしばられず、この世界を自由に生きています。 また、まほは 2011 年 3 月 11 日の大地震を、アルバイト先の新宿の電器屋で経験します。 まほの心は、この地震に大きく揺さぶられ、せっかく決まった内定も辞退してしまいます。デザイナーになる、という「夢」を捨てたのです。3.11 から半年ほど経った頃のことです。 そして、まほは、「ワクワクして生...

「人生長すぎる」とお嘆きのあなたへ - エクハルト・トールの場合

「人生長すぎる」 ぼくもそう思ったことがあります。 「なんだか毎日がつまらない」 そんなことも、時々、思います。 そして、「消えてしまいたい」とか「もう生きていられない」とか。 そういう思いをふっ飛ばして、元気に生きたい、と考えはしても、「できないものは、できない」んですよね。 「今の自分には、明るく普通に生きるなんてできないんだ」と開き直ることも大切です。 うつ的な気分が湧いてくる自分を、認めてやったらいいんです。 たぶんあなたは、自分の気持ちを殺して、周りの要求に応えるために、自分の人生を使いすぎてしまったのです。 いつの間にか周りのために生きることになってしまったとき、自分がなんのために生きているのか分からなくなって、生きるのが苦しくなって、最後には死を選ぶことになる。悲しいことですが、これも、ある意味、自然なことです。 けれども、今これを読んでいるあなたは、まだ、死を選ぶところまでは、行っていないわけですから、今から自分の生き方を変えることもできるわけです。 とはいえ、生き方を変えるということは、いとも簡単であると同時に、なんとも難しいことです。 周りの目を気にしすぎているのは、あなた自身なのですから、周りを気にするクセを変えればいいだけです。話は簡単ですよね。 ところが、それを実行するのが難しい。 「もう周りの目は気にしないぞ」と心に決めても、その瞬間から、その通りに生きるというわけにはいきません。 こうしたことには、どうしても時間がかかります。 ところが、世の中には稀に、あるとき突然、劇的な変化が訪れる人もあるようです。 エクハルト・トールという作家がいますが、この人は長い間うつ的な思いをかかえて生きていたのに、ある晩、その重苦しい気分の中で、次のような経験をします。 「私は、もうそれ以上自分自身と生きることが出来なかった。そして、答えのない疑問が生じた。自分と生きることが出来ないこの『私』は、一体誰なんだ? 自分とは何だ? 私は虚空へと吸い込まれるように感じた。その時は、一体何が起こったのか知らなかったが、満たされない過去と恐ろしい未来との間に生きている、思考が作り出した自我が、その重苦しさ、その抱える問題と共に、崩壊したのだ。翌朝、目が覚めてみると、すべてが実に穏やかだった。この...

いきいきと生きたいあなたへ - 魂の輝きを取り戻すために

なんだか毎日がつまらない。 何をやっても長続きしない。 自分のやりたいことが分からない。 こんな「ないないづくし」を感じながら生きてる人って、案外おおいんじゃないでしょうか。 そういうぼく自身、そんな人間の一人だったりします。 とはいえ、ぼくは五十すぎのおじさんですので、「ないないづくし」歴が長い分、知恵もついて、若いころと比べればずいぶんと楽になりました。 というわけで今回は、この「ないないづくし」から抜け出し、生まれたときの「魂の輝き」を取り戻す方法について書いてみようと思います。   *  *  * 人というものは、この世に生まれ落ちたそのときには、まばゆいばかりの魂の輝きを持っています。 ところが残念なことに、この世界で生きていくためには、輝きを放出してぱかりではいられません。 赤ん坊は、生まれてしばらくの間こそ、したい放題をしても受け入れてもらえますが、お母さんや周りの人の助けなしには生きていくことができませんから、徐々に周りと合わせる方法を学んでいくことになります。 これを「魂の輝き」の観点からいうと、魂に覆いをかけて、周りに放つ光を弱めていくことになります。 成長していくうちに、この覆いは分厚いものになり、魂の輝きなど、どこにも見えなくなってしまう。そんな人が、かなりの数いるのです。 ここで魂と呼んでいるものこそ、いわば人間の本質ですから、その光が見えなかったら、「何をやりたいのか分からない」という状態になるのも当たり前です。 そうなれば、何かに興味をひかれてやってみても「長続きしない」ことにもなりますし、「どうにも毎日がつまらない」ということにもなってしまいます。 このように考えれば、「ないないづくし」から抜け出す方法も、簡単に分かります。 あなたの魂の覆いを取り去ればいいのです。   *  *  * 魂の覆いを取り去ればいい。やるべきことは分かりました。 けれど実際にはこれをどうやったらいいのでしょうか。 実のところ、これには無数のやり方があるのです。 この記事を読んでいるあなたも、ネット上に溢れかえる、「自己実現の方法」や「夢をかなえる生き方」、そして「引き寄せの法則」や「受け入れの法則」といった様々なやり方をご存知のことでしょう。 それぞれのやり方には、それ...

悟ってしまえば「悪」なんてなくなるんです

般若心経というお経があります。 このお経の内容をひと言で説明すると、「この世のすべては空(くう)である」ということになります。 と、そのように言うことは簡単なのですが、ここで「空とは何か」というのが難しいところで、というのも、これは言葉では説明できない、自ら経験して、体感しなければならないことだからなのです。 もちろん般若心経の中でも「空」とは何かが説明してあり、例えば「無老死亦無老死尽」とあります。 これは「老死もなく老死が尽きることもない」と読むわけですが、これが「老死は空である」ということの説明になっています。 ふつうに「空」というとき、例えば「空洞」という言葉は「中が空っぽ」ということですから、「中がない」ということです。 けれども、般若心経が説明するのは、あるものが「空である」ということは、それが「ない」と同時に、そのないものが「尽きることもない」というのですから、普通に考えれば矛盾した話で、何を言っているのか分かりません。 そこで、般若心経に直接は出てきませんが、「悪」について考えて見ましょう。 般若心経の考え方では、この世のすべてが空なのですから、「悪もまた空」ということになります。 すると、これを「老死」のときと同じように言い換えてみると、「悪はないが、悪が尽きることもない」となります。 これがもし、単に「この世に悪はない」という意味だったら、どういうことになるでしょうか。 この世に悪はないのですから、何をやってもかまわない。そういうことも言えてしまいます。 けれども、仏教は悪いことをしてはいけない。と教えます。悪いことをすれば、その結果が悪いこととなって自分に降り掛かってくるから、悪いことはしないほうがよい、というわけです。 ここに「悪が尽きることはない」という言葉の意義が生じます。 お釈迦さまは悟りを開いたので、すべてが空であることを知りました。 悟りの世界では「悪」も「善」もないのです。 けれども、俗世の意味での「悪」がなくなるわけではありません。 そこで、悟りを開いたのちも、仏陀が「悪」をなすことはないのです。 仏陀は「悪」も「善」などないことを知りながら、けれども、俗世には「善悪」があることも知って、「悪」はなさず、「善」のみをなすわけです。 以上が「空とは何か」という...

不思議なきのこを科学する - そして瞑想と悟りへ

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[左は普通の状態の脳内のつながり、右は不思議なきのこが効いている状態でのつながりを視覚化したもの。右図では脳内のネットワークが活性化されている様子がはっきりと分かる] [この記事は、文庫本10ページ程度の長さがあります] さて、みなさん、マジックマッシュルームは知ってますか。 シロシビン、あるいはシロシンという幻覚性の成分を含む不思議なきのこのことで、日本でもヒカゲシビレタケとか、普通にその辺に生えてるかもしれないきのこなんですけど。 2002年に法律で規制されたのですが、それ以前はオランダ産などの乾燥きのこが、渋谷などで普通に買えました。 ビートルズ世代にはおなじみの LSD という強力な幻覚剤があります。 彼らの名曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド (Lucy in the Sky with Diamond)」は頭文字が LSD になることで知られたサイケデリック・ソングです。 サイケデリックというと今はファッション的な言葉かもしれないませんが、これはもともとは LSD などの幻覚剤の呼称です。 マジックマッシュルームもサイケデリクスの仲間であり、LSD ほど強力ではないものの、作用はよく似ていると言われます。 サイケデリックという言葉は、「精神を開く」という意味の造語です。 かつてイエローマジックオーケストラが富士フィルムのカセットテープ用に作った「開け心 - 磁性紀のテーマ」という曲の「開け心」も、このサイケデリックの意味しているのでしょう。 ちなみに、この「開け心」という曲は、長らくアルバム未収録でしたが、今は [こちらの CD] にステレオヴァージョンで収録されてるんですね。そのうち聴いてみたいところです。 (テレビCM用のため、モノラルバージョンが存在し、キャンペーングッズとしてプレゼントされたカセットブックに収録されたりしてたんです。この辺の事情については、[ こちらのページ ]に詳しい情報があります)   *  *  * さて、マジックマッシュルームと呼ばれる不思議なきのこに少し話を戻しましょう。 このきのこの持つ、サイケデリクスと呼ばれ、「精神を開く」という、その不思議な効果は一体どんなものなのでしょうか。 その説明をする前にひとつ、おもしろい科学的な研究を...

5つのステップで気楽にカルマを落としましょう

1. 自分のできる範囲で、悪いことはやめ、善いことを心がける。 2. 悪いことをしてしまったら、次はそうしないように、よくよく心がける。 3. そうは言っても、また悪いことをしてしまうだろうから、そんな自分のことを許してあげる。 4. けれども、自分を甘やかさない。悪いことをしてもいいんだとは思わない。 5. そうやって少しずつ自分の中の悪い部分を落としていく。 以上が気楽にカルマを落とす5つのステップです。 あれっ、と思った方もいるかもしれませんが、話は簡単ですよね。 それじゃ、もう少し詳しく見てみましょうか。   *  *  * カルマという言葉の意味を 「何か悪いことをして、その結果、今の苦しみがあること」 そんなふうに理解している方が多いかもしれません。 特に「悪いことをして」という部分を、いわゆる前世や過去世において、ととらえてらっしゃる方は、「どうすればカルマを落とすことができるのか」あるいは「どうすればカルマを断ち切れるのか」とお悩みのことでしょう。 ですが、前世と考えても、過去世と考えても、あなたの人生であることには変わりはないのですから、悪いカルマを断ち切り、悪いカルマを落とそうとするとき、何か難しいことが特別あるわけではないのです。 するべきことは簡単です。 日々を善(よ)くいきる。 ただそれだけのことです。 ぼく自身、自分の人生が、妙な具合によじれてしまっているもので、これは誰かにお祓いでもしてもらったほうがいいんじゃないかと考えたこともあります。 もちろん、お祓いにはお祓いの効き目がありますので、あなたがお祓いを必要とするなら、お祓いをしてもらえばいいのです。 けれども、カルマという言葉のもともとの意味に立ち返るならば、 「悪いことはやめ、善(い)いことをする」 これだけで、悪いカルマは断ち切られ、苦しみのカルマは落ちるのです。 カルマというのは、もともとのインドの言葉です。 仏教では業(ごう)と訳され、なかなか重苦しい響きがありますが、もともとは「行ない」というほどの、軽い意味の言葉です。 この「行ない」という言葉が、どうしてそんなに重い意味を持つようになったかというと、「善い行ないは善い結果をもたらし、悪い行ないは悪い結果をもらす」という「因果応報の考え」...

本の紹介: フロリンダ・ドナー「シャボノ」、アマゾンの奥地のヤノマミ族の暮らし

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南米ヤノマミ族の集落シャボノの写真 カルロス・カスタネダの呪術師仲間であり、人類学者でもあるフロリンダ・ドナーは、 「魔女の夢」という本が日本でも出版されています。 この「魔女の夢」という本は、彼女がベネズエラで呪術師として受けた修行を書いたもので、カスタネダの著作と同じく、西洋の近代文明が生み出した合理主義的世界とは異なる、別の論理によって成り立つ世界の持つ豊かさを感じさせてくれる良著です。 カスタネダのファンの方にも、彼の世界の隣の世界を描いた本として、興味深く読めること請け合いです。 (なお、 「魔女の夢」については、こちらにも短い紹介を書いております ) *  *  * さて、そのドナーに "Shabono" 「シャボノ」という未訳の著書があります。 たまたまサンフランシスコの古本屋で見つけて読んでみたところ、これが滅茶苦茶おもしろい。 こちらは、ドナーが、ブラジルとベネズエラの国境地帯のアマゾンに住むヤノマミという、原初の狩猟採集と素朴な農耕生活をしている人々の村で過ごした体験を描いたものです。 シャボノというのは、ヤノマミの人たちが作る環状の集落のことです。 この本は、人類の始原的生活の形を知る意味でもおもしろいし、エペナという幻覚剤の使用と変性意識の記述も興味深く、また、カスタネダの書く世界とも重なる呪術のあり方も十分に描かれ、一冊で三度おいしいと言いたくなる名著です。 こんなにおもしろい本が未訳のままなのはもったいないので、今この本の翻訳を進めています。 ペーパーバックで 300 ページほどの本ですが、ひと通りの粗訳は紙の上にできあがっていて、現在それを打ち込みながら、訳の直しをしている段階です。 といっても、勝手に訳しているだけで、どこかから出版できる当てがあるわけではありません。 出版社や編集者の方で、興味のある方がおられましたら、sut3t3@gmail.com まで、ぜひご連絡をお願いします。 なお、このヤノマミ族には、嬰児殺しの風習があり、 NHKの番組から劇場公開された「ヤノマミ~奥アマゾン-原初の森に生きる~-劇場版」 でも、その様子が描かれています。 また、番組ディレクターの国分拓氏の書いた 「ヤノマミ」(2013 新潮文庫) も読み応えがあります...

最高の幸せ、フロー体験を知ってますか?

みなさんは、フロー体験って聞いたことありますか? 何かをすることに完全に没頭していて、同時に頭が冴え渡っていて、時間が経つのも忘れるくらい幸せな状態のことです。 ミハイ・チクセントミハイというハンガリーの心理学者が提唱する考えです。 [ wikipedia でミハイ・チクセントミハイを見る ] 第二次世界大戦が終わったとき、ミハイさんは10歳でした。そして戦後の困窮生活を体験する中で、ユング心理学との出会いがあり、やがてアメリカで幸福とは何かを研究するようになります。 そうして彼は、人々が、日々の暮らしの中や通常の経験の中の、いったいどんなところで幸福を感じるのかを研究しているうちに、フロー体験という不思議な幸せの体験を見つけたのです。 完全なフロー体験というのは、スポーツ選手や芸術家、あるいは長年に渡って瞑想を続けた人など、一部の人に限られるかもしれませんが、子どもの頃、遊びに夢中になって時間を忘れてしまった経験は、多くの人がお持ちではないでしょうか。 ミハイさんは、そのフロー体験の状態について、次のように説明しています。 ・時間の流れの中で、いつも自分のしたいことが分かっている ・していることについて、すぐさま反応が得られる ・する必要があることと、それが難しくても可能なことが分かっている ・時間の感覚が消失する ・自分自身のことを忘れてしまう ・自分はもっと大きな何かの一部であると感じる こうした状態にあるとき、何をしているかは問題でなくなり、していることそれ自体に価値があることになるというのです。 フロー体験をするための確実な方法というものはないようですが、こんなちょっとした話を知るだけでも、なんだか人生が楽しいものになりそうな気がしますよね。 フロー体験のことをさらに知りたい方には、ミハイさんのこちらの本がおすすめです。 「フロー体験入門―楽しみと創造の心理学」[世界思想社 2010] (ただし一部訳が読みづらいようです)  難しい本も大丈夫な方なら、こちらを。これもミハイさんの本です。   「フロー体験-喜びの現象学」[世界思想社 1996] なお、この記事の内容は、TEDカンファレンスのビデオ 「ミハイ・チクセントミハイ: フローについて 」(2004年2月) を参考...

プロセスワーク - この世の調和を呼び戻す試み

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プロセスワーク、あるいは、 プロセス指向心理学の提唱者、アーノルド・ミンデルの「紛争の心理学」という本 をどこで知ったのかは忘れてしまった。 けれども忘れられないのは、その本の中で、「社会的な葛藤というものは、個人的な葛藤と切り離すわけにはいかない」ことを教えてくれた場面である。 そもそもプロセスワークとは何かというと、ユング派の精神分析家であるミンデルが、タオイズムやシャーマニズムの要素を取り入れ、個人の治療だけでなく、グループでのワークも含め、「その場」で進行中の様々な心理的・身体的過程(プロセス)に注目することによって、問題解決をはかるための技法とでもいうところか。 プロセスワークの考え方としては、 場において意識されている側面である「一次プロセス」と意識されていないところで起こっている「二次プロセス」という捉え方や、 人はその人自身として振舞っている以上に、ある役割(ロール)を演じる立場で行動しているという見方、 更には、グループでワークをしているときに、それぞれの参加者が取っている役割(ロール)ではない、その場に直接現れていない役割(これをゴーストロールと呼ぶ)に注目するなど、 興味深い視点が多々盛り込まれている。 アーノルド・ミンデルは、妻のエイミーとともに、世界各地の「紛争」を抱える数々の地域に赴き、ワールドワークという名のもとに集団討論の場を主催してきた。ワールドワークでは、「紛争」の当事者同士が「対話」をし、互いの理解を深め、「紛争」の解決を目指すために、集団討論を行ない、ミンデル夫妻は心理学的な手法をもって、その討論を舵取り(ファシリテート)する。 そのワールドワークを、北アイルランドのベルファストで行なったときの話が、「紛争の心理学」に取り上げられているのだが、北アイルランドとアイルランド共和国という二つの地域の間の葛藤は、非常に大きなもので、多数の参加者がある中、双方が激しく主張をやり取りすることになる。 そうして、ある男性が激昂して相手を攻撃する言葉を吐き出し続けているときに、ミンデルはその男性の首が真っ赤になっていることに気がついて、次のような発言をする。 「ちょっと待ってください。あなたの首筋が真っ赤になってるじゃないですか。一体どうしたんですか」 すると、男性はふっと我に返り、「いや実は自...

楽しいカルマの落とし方 - オウム真理教について一言

以前、 別のサイトにも 書きましたが、過去生の因縁としてのカルマ(業)というものは、ぼくは信じていません。 その代わり、あなたが、お母さん、お父さんから受けた影響、また、お母さんやお父さんが、そのお母さんやお父さん(あなたから見れば祖父母ですね)から受けた影響、そして更にそのまた、そのお母さんやお父さんからの影響、というふうにいくらでも遡っていける先祖代々から受ける影響のことをカルマとして第一に考えたらよいと思っています。 また、持って生まれた素質や、育つ過程で周りの人たちから受ける影響もカルマとして考えられます。 つまり、こうした過去からの影響全体を、カルマとして捉えることができますので、以前書いた記事の続きとして、 こちら や こちら にも書きましたが、この意味でのカルマを落とすためには、まず自分というものをしっかりと見ることが必要で、そのためには、呼吸法や瞑想法の実践が役に立つわけです。 さて、「カルマ落とし」という言葉は、オウム真理教が使ったことで有名になった経緯があります。 しかし、その使い方というのは、「苦行をさせてカルマを落とさせる」とか、「自分の身に悪いことが起きたらカルマが落ちるので喜ぶべき」とか、果ては「悟りを開いた者が他者を殺すことでその人のカルマを落としてやる」などといった大変乱暴なものであり、その挙句に、地下鉄サリン事件を引き起こしてしまい、死者13名、負傷者6,300名にも及ぶ被害者を出し、20年以上を経過した今でもPTSDなどの後遺症を多数の方が抱えておられることを考えると、なんとも痛ましい限りで言葉もありません。 カルマに関わるこうした乱暴な考え方は、世間の多くの人からすれば、愚かしい限りのものでしょうが、多数派の中に入ることができず、悩みを抱えながら日々を送っている人たちの中に、甘い誘いにそそのかされて、そうした悪魔的な道にうっかり足を踏み入れてしまう者があったとして、単純にその人を責めて問題が解決するとは思えません。 そうした人にも、もちろん責任(解くべきカルマ)はありますが、それと同時に、時代全体がおうべき責任(カルマ)があるように思えます。 ナチスドイツのヒトラーにせよ、オウム真理教の松本智津夫にせよ、こうした「怪物」を生み出してしまった時代精神というものを、しっかり認識することが何より大切なこ...

幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話 -- 人生は哲学するには長すぎる 05

その昔、明石家さんまさんが「幸せーってなんだっけ、なんだっけ」と歌うコマーシャルがありました。 人間誰もが、幸せを求めて生きています。 けれど、人生の意味や目的が人それぞれである以上、幸せの形もひとそれぞれに違いありません。 一方で、幸せを感じるということについて、科学的な立場からその定義をし、心理学的、生理学的、あるいは脳神経科学的な考察をすることが可能なほどにまで、現在の科学は人間の心についての理解を深めつつあります。 というわけで、「カジュアルな哲学」の立場から「人はなぜ生きるのか」を論じるこのシリーズの最終回は、「人は幸せのために生きる」という前提のもと、「幸せとは何か」、「どうすれば幸せが得られるのか」を科学的に考えていきたいと思います。 ところで前回は、「正しい生き方はあるのか」ということを考えました。そして世界即神、あるいは仏教的な立場から、「考えないこと・言葉を使わないことの正しさ」を説明しました。 考えること、言葉を使うことをやめることで、自我の濁りが取れて、直感的に正しく生きられるようになる、という話です。 この話と重ねて幸せの定義を考えると、「幸せとは、考えること・言葉を使うことを必要としない状態である」ということが言えます。 たとえばあなたが、おいしい食べ物を食べて「幸せだなぁ」と感じているとします。 そのとき、ただそれを感じているだけで幸せですよね。 このとき、わざわざ言葉を使って「どうして幸せなのか」ということについて考えて、「自分は今おいしいものを食べているから幸せなのだ」とか、「この幸せはこれを食べ終わったら終わってしまう」とか考えていたら、せっかくの幸せな気分を味わうことなどできなくなってしまういますもんねぇ。 ここで「考えること・言葉を使うことを必要としない」という部分を、神経科学的な言葉で言い換えると、「幸せとは、社会神経系が働いている状態で、しかも『今この瞬間』を味わっている状態である」ということになります。 (「今この瞬間」を味わっているとき、言葉はいりません) さて、この社会神経系という用語はスティーブン・ポージェスという行動神経科学の研究者が提唱するポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)の言葉です。 ポージェスの説では、社会神経系が働いているとき、わたしたちはリラックスし...

人生は無意味、ゆえにぼくらは自由 -- 人生は哲学するには長すぎる 04

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[写真はペナン島ジョージタウンの中国寺] 「人生は無意味である」という言い方は、いささか厭世的にすぎるかもしれません。 けれど、もともと「無意味」であるがゆえに、ぼくらは自由に「人生の意味」を自分で作り出すことができるのだとも言えます。 生きている人の数だけ、人生の意味はあります。 愛情、家族、財産、名誉。 人生の目的をどこに置くかは、まったくあなたが自由に決めればいいことなのです。 そうはいっても、ある種の「真実」としての「正しい生き方」というのはないものか。 この疑問についても、誰もが納得する「正しい生き方」というものはありません。 とはいえ、アドヴァイタ的に世界が神そのものであると考え、そこでどのように生きるべきかということを科学的な立場から検討するとき、一定程度は普遍化できる「正しい」立場というものは考えられます。 ここで一つ考えておく必要があるのは、「悪」とは何か、という問題です。 世界が神そのものであるとすると、ぼくらが普通「悪」と考えるものも、神の顕れにほかならないことになります。 ぼくらが「悪」とか「善」とか呼ぶものは所詮人間が便宜的にそう分けたものにすぎないのであって、絶対的な区別はないということです。 つまり、アドヴァイタの見方では、人が「悪」と見なすことにも、人には計り知れない意味があるのであって、それは、神の意志にしたがって起こってくることだというわけです。 ですから、それについて、人間があれこれ考える必要は、本当はまったくなくて、ただ「自我」を浄めて、すべてを神にゆだねればいいのだということになります。 こうした考え方は、一見、道徳や倫理といった考えと矛盾するように思えます。 人は善悪を考えずに行動していいというのか、ということです。 けれどこれは、善悪を無視して行動すればよい、と言っているわけではありません。 普通に「善悪を考える」というとき、その「考え」自体が「自我」によって濁っているので、「理性的」に考えた結果が却って誤った結果を生み出す、ということを言っているのです。 「自我」の濁りが消えてなくなれば、「真の自己」は自然に「善」をなす、というわけです。 座禅においても、頭の中のお喋りをやめて、無念無想になるこ...

人生は哲学するには長すぎる 03 「宝石泥棒」が導く遥かなるインドへの道

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[写真はマレーシア・ペナン島の中国寺の巨大線香] 全国推定百万人の「楽して生きたい」だけのみなさんに、愛を込めてお送りする今回の記事、「ポップでカジュアルな、行動派のための哲学入門」も三回目となってようやく佳境に入ってまいりました。 初回 では、重々しい「フォーマルな哲学」に対して、「人生に対する考え方」くらいの「カジュアルな哲学」という立場を提示し、 第二回 では、ぼく自身の「カジュアルな哲学」の立場としてアドヴァイタの考え方を説明しました。この世界のすべてが神の顕れである、とするインドのヒンドゥー教に由来する考え方です。 ここでまず話をタイトルに戻して、「人生は哲学するには長すぎる」とぼくが思う理由を書いておきましょう。 この話題の発端はといえば、友人ネギ氏の「一介の庶民にとっては、人生は哲学するには短すぎる」という主張にありました。http://ad2217.hatenablog.com/entries/2016/06/13 ネギ氏のもう一つの記事に大変おもしろく述べられている通り、「フォーマルな哲学」というものは、たいそう時間もかかり、とても根気のいる作業です。 そういう世界が好きで仕事にしてしまったり、仕事にはしないまでも趣味としてこつこつと思考を積み重ねていくといった少数のかた以外には、あまり縁のない世界でしょうし、日々平穏に生きている大多数の人々にとっては、「世界」「存在」「認識」などといった問題について考えることは、お年頃を過ぎてしまえば、まったくといっていいくらい、ありえないことなのでしょう。 http://ad2217.hatenablog.com/entry/2015/12/15/191847 ところで、ぼくのような万年中二病の人間の場合、「生」や「死」、「戦争」と「平和」や「核エネルギー」について、熱心に日夜考えるわけではないですけれど、日々の暮らしの中で、ネット上のあれやこれやを見るにつけ、そういった話題も頭をかすめながら、「あー、なぜ人は生きねばならないのでしょうか」とかなんとか、冗談交じりに真剣に考えているわけです。 そういう不真面目かつ気まぐれ、おまけに飽きっぽい性格のわたしにとっては、「フォーマルな哲学」一本でやっていくというのは、ちょっと無理。そんなに長い間、形式張ったことばかりやっていけな...

人生は哲学するには長すぎる 02 厨ニ病患者のインド万歳

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前回、「哲学」という日 本語には重々しい響きがあるけれど、英語でいうフィロソフィ philosophy の場合は、「人生に対する考え方」程度の軽やかな意味合いがあるということを書きましたが、これをここでは「カジュアルな哲学」と呼ぶことにしましょう。 また、ここでの「カジュアルな哲学」の対象としては、「まったくこの世界ってのはどうなってるんだ」とか、「なんでわざわざ生きなきゃならんのよ」とか、「おれはもっと楽して生きたいだけなんだよ」とかいった、中二病的な悩みやぼやきを想定することにします。 この「カジュアルな哲学」について言えば、ぼくの大好きな分野といってもいいくらいです。 とはいえ、このくらい範囲を限定しても、問題に対しては様々なアプローチの仕方がありますから、前提とする考え方およびその方法論についても述べる必要があります。 前提とする考え方は、インドのヒンズー教にもとづくアドヴァイタ(日本語では不二一元論といいます)で、方法論は科学的なものです。 アドヴァイタの考え方は、この世界全体が神の顕れであり、自我のために曇った人間の認識が洗われて、真の自己が意識されるとき、世界=神と、自己が同一のものであるという悟りに達するというものです。(この悟りの境地を「梵我一如」といいます) 哲学というよりは宗教の話に思われるかもしれませんが、もともと神学は哲学の一部だったわけですし、西洋でも17世紀のオランダの哲学者スピノザの考えはアドヴァイタと極めて近いものです。 ( 『スピノザ ―「神即自然」の汎神論』 などご参照ください。なお、かのアインシュタインは「自分はスピノザのいう神なら信じる」という言葉を残しています) アドヴァイタや梵我一如は馴染みのない言葉かもしれませんが、仏教の考えもこれにかなり近いものです。 仏教の言葉では「全ては苦で、万物は無常であり、この世に自分と呼べるものは存在しない(無我)、このことを正しく知るときその人は涅槃の境地に至る」ということになります。このとき、涅槃とは、自我が消え、法(ダルマ)という根本原理そのものを生きる境地と言えましょうから、法と神、無我と真の自己を同一視すれば、梵我一如を別の言葉でいったものと解釈することもできます。 さて、この世界に不満タラタラで、楽して生きたいだけの「不健全」きわまりない...

人生は哲学するには長すぎる 01 ぼくは万年厨ニ病

「哲学」という言葉には、ずいぶん大それた響きがありますが、英語のフィロソフィ philosophy という言葉の場合は、「人生に対する考え方」程度の軽い使い方をするのだという話を、遠い昔なにかで読んで、「へー、そうなんだ」と感心した覚えがあります。 試しに手元の辞書で引いてみると、"a set of ideas about how to do something or how to live" という記述があり、これの意味するところは「何かをなす、あるいは人生を生きるにあたって、どのような方法を取るかについてのひとまとまりの考え方」といったことですから、日本語の「哲学」よりはだいぶ軽やかな感じがします。 (なお手元の辞書というのは Merriam-Webster Dictionary の android 版 で、いわゆる英英辞典というやつですが、ネット上のほかの辞書よりやや収録語句が少ないきらいはありますが、無料で、しかもオフラインで使えるので重宝しています。iphone 版もあるようです) さて、友だちのネギさんが 「人生は哲学するには短すぎる」 という記事を書いていて、その中で、哲学というものは「職業哲学者ならともかく、一介の庶民が手を出すには時間がかかり過ぎる」と述べた上で「一介の庶民は何十年も先に訪れる死などというものに悩み苦しんで人生を無駄に過ごす暇はないのである」とおっしゃっているのは、けだし名言と言えましょう。 ただし、これはネギさんのような健全な精神の庶民にのみ当てはまる言葉なのでありまして、ぼくのような「不健全」な人生を送る人間においては事情はやや異なってきます。 ぼくの場合、「この世界ってのは、一体どういうシロモノなのか」とか、「どうして俺はこんな世界で、ごちゃごちゃごちゃごちゃ苦しみながら生きなきゃならんのだ」とか、「もっと楽に生きる方法があればなぁー」とか、そういう「哲学」未満のうたかたの考えの切れ端が、ことあるごとに浮かんでくるわけです。 これは直接的には、ネギさんのいう「死に悩む」ということに該当しませんが、「死とは何か」の裏返しとしての「生とは何か」に悩み続けているわけですから、実質的に同じことと言えましょう。 ところで、こうした「哲学」未満の悩みというものは、一定程度の若者にとって、ある時...

迷想三昧01 クアラルンプルにて

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みなさん、こんにちわ。 ぷちウェブ作家のとし兵衛です。 今日はマレーシアの首都クアラルンプルに来ています。 ちなみにマレーシアの人はこの街をKL(ケーエル)と呼びます。 ぼくの頭の中の地図では、マレーシアはインドとタイの中間にあります。 イギリスの植民地となっていた歴史から、マレーシアには南インドのタミルの人たちが結構住んでいて、インドのお寺も多いんですよね。 そうしたインドに対する近さを感じる一方で、高速道路は整っているし、長距離バスは立派だし、先進的な面もあり、そういった点ではインドやタイより先進工業国に近い充実を感じます。 ちなみにタイは仏教国ですが、カンボジアを経由してヒンドゥー教の影響も強く、宗教的にはむしろインドに近い面もあります。 というわけで、インドが日本から、文化的にも距離的にも遠いのは確かなのですが、タイとマレーのどちらが遠くて近いのか、ここはほんとは微妙なところです。 けれども、雲南起源の照葉樹林文化を仮定して、日本とタイはかなり近いのだと、ここではごく大雑把に主張しておくことにします。 さて、そんなこんなで、アジアの各国を漂流中の私ですが、南インドのタミルナドゥ州からマレーシアに戻ってきて、あらためて想うことはといえば、人間、見かけは違っても、やってることは大して違わないんだよなぁ、みたいなことだったりします。 起きて眠って、飯を食って糞をして、働いて遊んで、家族を作ったり作らなかったりして、やがて歳をとって死んでゆく。 当たり前すぎてつまらない話ですが、大きく風呂敷を広げちゃうと、そんなくくりになってしまいますわな。 逆に言えば、そんなふうに、遠目には区別のつかないような人生であっても、近くから見れば、その人その人の、それぞれのディテールに満ちていて、ひとつひとつが掛け替えのない命なわけですから、ぼくらがこうして日々を生きていくことの意味として、そうやってこの世界の細部を刻み込み、作り上げてゆくという、神の壮大な意図とでもいうべきものを見出すことになるわけですけれども。 この世界の残酷さを知り、人の世の嘘っぱちを認め、R.D.レインの過激な告発も織り込んだ上で、ゴータマさんのように慈悲の気持ちも大切にし、けれどもカルロス・カスタネダの書くように非情という立ち位置も視野に見据えて、ついつ...

バンコクの安宿で知覚の扉を浄める

タイのバンコクの安宿で、少しの時間を見つけて、これを書いている。 今はまだ昼前だが、夕方四時過ぎ発の夜行バスで南の街ハートヤイに向かう。 所要時間12時間以上。 ぼくにとって、種田山頭火は気になる存在で、アルコール依存で人格的にも「破綻」している彼が、それでも人に救われ、仏教の網にかろうじて引っかかって、妻子は捨てた乞食坊主だが、道端で死ぬことはなかったことの因縁。 きちんと救われたわけではない、絶望手前の、人生の終着点。 [流浪の俳人山頭火については、 前山 光則「山頭火を読む」 など参照] それを社会からのはみ出しととらえれば、山頭火も立派なアウトサイダーということになるが、もともとの コリン・ウィルスンの「アウトサイダー」 に書かれている人々は、まったくといってよいほど救いがない。幸せなアウトサイダーであるウィリアム・ブレイクを除いて。 「村八分は、二分はつながっていて救いがある」という言い方がある。つながりがあるから踏ん切れなくなるのは、日本的苦しみのもとだが、完全に切られるよりは、救いに近いのか。 そして、ブレークといえば、その詩から オルダス・ハクスリーが題名に取った「知覚の扉」。 ハクスリーの「知覚の扉」は、幻覚剤メスカリンの体験記にして、サイケデリクスのバイブル。 ブレークのもとの詩 の一節は、「知覚の扉が浄められるならば、すべての物事は、ありのままの姿を人に現すことになるだろう、無限というその姿を」というもので、つまり、ハクスリーが言うことには、サイケデリクスは、インスタントに知覚の扉を浄めてくれるということになる。そのとき眼前に現れるその無限というものが、天国なのか、地獄なのかは、誰にも予め言い得ないことなのだが。 そしてさらに「知覚の扉」(The doors of Perception) から取られたバンド名が、アメリカのロックバンド、 ザ・ドアーズ というわけであり、ザ・ドアーズの「ジ・エンド」が鳴り響く中、フランシス・コッポラによって、ぼくらは ベトナムの泥沼 を見せつけられるはめになったのだ。 山頭火の母との関係の「失敗」。それは決して彼の責任とは言えないが、その「母子関係の失敗」こそが、この世界の絶望の一因なのだと、とりあえず強引に述べて、この項は終える。 [なお、このページのリンクからアマゾン...