人生は哲学するには長すぎる 02 厨ニ病患者のインド万歳


前回、「哲学」という日本語には重々しい響きがあるけれど、英語でいうフィロソフィ philosophy の場合は、「人生に対する考え方」程度の軽やかな意味合いがあるということを書きましたが、これをここでは「カジュアルな哲学」と呼ぶことにしましょう。

また、ここでの「カジュアルな哲学」の対象としては、「まったくこの世界ってのはどうなってるんだ」とか、「なんでわざわざ生きなきゃならんのよ」とか、「おれはもっと楽して生きたいだけなんだよ」とかいった、中二病的な悩みやぼやきを想定することにします。

この「カジュアルな哲学」について言えば、ぼくの大好きな分野といってもいいくらいです。
とはいえ、このくらい範囲を限定しても、問題に対しては様々なアプローチの仕方がありますから、前提とする考え方およびその方法論についても述べる必要があります。

前提とする考え方は、インドのヒンズー教にもとづくアドヴァイタ(日本語では不二一元論といいます)で、方法論は科学的なものです。

アドヴァイタの考え方は、この世界全体が神の顕れであり、自我のために曇った人間の認識が洗われて、真の自己が意識されるとき、世界=神と、自己が同一のものであるという悟りに達するというものです。(この悟りの境地を「梵我一如」といいます)

哲学というよりは宗教の話に思われるかもしれませんが、もともと神学は哲学の一部だったわけですし、西洋でも17世紀のオランダの哲学者スピノザの考えはアドヴァイタと極めて近いものです。
(『スピノザ ―「神即自然」の汎神論』などご参照ください。なお、かのアインシュタインは「自分はスピノザのいう神なら信じる」という言葉を残しています)

アドヴァイタや梵我一如は馴染みのない言葉かもしれませんが、仏教の考えもこれにかなり近いものです。
仏教の言葉では「全ては苦で、万物は無常であり、この世に自分と呼べるものは存在しない(無我)、このことを正しく知るときその人は涅槃の境地に至る」ということになります。このとき、涅槃とは、自我が消え、法(ダルマ)という根本原理そのものを生きる境地と言えましょうから、法と神、無我と真の自己を同一視すれば、梵我一如を別の言葉でいったものと解釈することもできます。

さて、この世界に不満タラタラで、楽して生きたいだけの「不健全」きわまりない万年厨ニ病のわたくしが、どうして、「インド万歳、仏教がんばれ」になってしまったのか、そして、それがなにゆえ「哲学するには人生長すぎる」につながるのかについては、次回か、ひょっとすると次々回くらいで明らかになるものと思われます。
(どうもあと二回くらい続くようです)

以上、ご精読ありがとうございました。

[前回も紹介した RD レインの「レインわが半生―精神医学への道」ですが、実存主義や現象学の視点からいくつもの問題作をものしたイギリスの精神科医の自伝です。「ひき裂かれた自己」がもっとも有名ですが、この自伝は他の学術的著作と違って読みやすい上に、レインの主張の基礎といっていい内容ですので、関心ある方にはご一読をおすすめします]

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☆続きはこちらです。

[03 「宝石泥棒」が導く遥かなるインドへの道]

[04 人生は無意味、ゆえにぼくらは自由]

[05 幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話]

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