沖縄高江ヘリパッド反対運動と「子どもの盾」

沖縄・高江のヘリパッド建設反対運動の現場に、子どもを連れてきていた人がいることが、ネット上で取り沙汰されています。

「子どもを反対運動の道具に使うとはなにごとだ」と言い、これを「子どもの盾」とまで言う人がいます。

確かに、安全を確保できるとは限らない反対運動の現場に、子どもを連れて行ったことは、褒められるべきことではないでしょう。

しかし、子どもを連れて行った人が、子どもを反対運動の道具として連れて行ったと主張するのは、乱暴な意見というべきではないでしょうか。

子どもを連れていかざるを得なかった人の事情を想像することもせずに、「反対運動の現場に子どもがいた」ということだけを取り上げ、そのこととネット上の断片的な情報とを組み合わせて、反対運動は「子どもを道具に使う」ような非人間的なものであると主張し、さらにはそれをテロリズムと同一視するような言動は、自由な言論を保障するという民主主義の根本を危うくするものだと考えます。

しかしながら、こうした問題は、ネット上で「反対運動=テロリズム」といった「過激」な主張をする方々を責めたからといって解決する問題ではありません。

ネット上で「過激」な発言をし、「鬱憤」を晴らしている方々も、実のところ、現在の日本に蔓延する様々な「抑圧」の犠牲者であると考えられるからです。

「過激」な発言をし「鬱憤」を晴らす様子は、「いじめの構図」そのものです。

抑圧的状況の中で、自分がいじめに遭わないために弱者をいじめることに加担して、自分の身を守っているのが実情なわけですから、いじめをする人たちを責めるのではなく、この「いじめの構図」をひっくり返す必要があります。

抑圧されるもの同士がいがみ合う「いじめの構図」をひっくり返し、抑圧的状況を変えていくためには、多くの人々が立場の違いを乗り越えて、手を取り合うことが必要です。

もちろん「いじめの構図」をひっくり返すと一言で言っても、それは簡単なことではなく、一朝一夕にできることではありません。時間をかけて少しずつ前進していくしかないことでしょう。

その第一歩としては、「いじめに加担している人たちも被害者なのだ」ということに気づくことが重要です。

急速に戦争国家化が進む日本において、この強力な流れを一気に変えるような劇薬は存在しないように思えます。

とすれば、われわれ一人ひとりが、互いを敵視するのではなく、対等な人間として尊重し合い、それぞれの立場を認めながら、一歩いっぽ理想の社会を目指していくほかに道はないのではないでしょうか。

現在の状況の深刻さを受け止めつつも、あわてて事をし存じないように、冷静に着実な行動を取ることが求められる時代に、ぼくらは生きているように思うのです。

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