死を想って空を見る - 絶望空間から抜け出すために
電通に勤務していた24歳の女性が自殺し、労基署が労災として認めたことが、一部で話題となっているようです。
日本の集団が宿痾として持っている「黒い」体質についてはさておき、この女性が落ち入ってしまった「絶望の空間」について、今日は少し書いてみようと思います。
* * *
社会的に生きる人間という存在のうち、多くの人は、こうした「絶望の空間」に直接入り込むことはなく、一生を終えるのだろうと思います。
けれども、そうした「空間」に入り込んで、逃げ出すことができなくなる、ごく少数の人以外にも、その一歩手前の「うつ的空間」を出たり入ったりする人はある程度いるわけですし、「うつ的」が「絶望」に転じるかどうかは、ほんの少しの偶然とか、ちょっとした気持ちの持ち方の違いとか、普段だったら取るに足りないようなほんとうに小さなことがらによって左右されたりするものなのだと思います。
それは、何か一つの原因がある、というよりは、小さなことの積み重ねによって、あるとき、「うつ的」から「絶望」に入り込んでしまう、というようなことだったりしますから、その流れを変えるということは、決して簡単なことではないのです。
ところが、その決して簡単ではないことが、ほんの小さなことがきっかけで起こる場合もあります。
その「小さなきっかけ」をどうやって見つけることができるのか、あるいは、たとえば、「絶望」に落ち入りそうな人と、その周りにいる人の間で、そういう「きっかけ」がどのように立ち現れうるのか、ということを書くことができたらと思うのです。
* * *
「死にたい」と思ったときに、空を見上げる。
そんな一つの行動が、世界を変えるきっかけになることもあります。
建物の中では、頭の上を見ても天井しか見えないかもしれません。
それでも、天井のその上には、空が広がっています。
その空は、いつも世界中の空とつながっていて、人間のちっぽけさと偉大さを見下ろしているのです。
あなたが死のうが生きようが、この青く広い空のもとでは、どちらも取るに足らず、けれども、そのどちらもが、どうしようもなく愛おしいありようなのだということに、あなたは気づくかもしれません。
* * *
「死にたい」と思うほどに絶望しているその人の、その絶望の気持ちをただそのまま認めてあげる。
それだけで、悪循環を変えるきっかけになりえます。
そう言ったら、なんだ、そんな簡単なことなのか、と思うかもしれませんが、「ただそのまま認める」ということは、実際にそれをしようと思っても、なかなかできるものではありません。
「死にたい」と言われて、「そうか、死にたいのか」とただそのまま聞くことは、必ずしも簡単なことではありません。
「死にたいだって。そんなこと考えちゃだめだ」というのが、ありがちな反応でしょうか。
「死んだ気になったら、なんでもできるよ」とはげましてみたくもなるでしょう。
「死にたいのか。でもあなたが死んだら悲しいな」そんな言葉も出てくるかもしれません。
あるいは、どうして「死にたい」のかを聞いて、「死を選ばず、生きる方向を考えられる」ようなアドバイスを、と考えるかもしれません。
けれども、人が死を考えるときには、もう他の方法は目に入らなくなっているのですから、周りからのそうした働きかけは、残念ながらあまり有効とは言えません。
また、こうした場面で医療につなげることも、必ずしもいい方法とは限りません。
薬物や隔離といった方法に頼りがちな医療のために、返って状態をこじらせる場合もあるからです。
とはいえ、良い医療機関につなげて、睡眠導入剤や抗不安薬などを必要最小限摂ることは、状態をよくする助けになりえます。
医療機関の限界をわきまえた上で、医療機関の助けを借りることは選択肢の一つでしょう。
* * *
そのようなことを考慮した上で、あなたに精神的な余裕があるのなら、「絶望という名の空間」に閉じ込められているその友だちに、ただ寄り添ってあげること。
何を言われてもただ聞いてあげる。
何も言葉が出てこなければ、その沈黙を受け止めて、一緒にその「絶望」と向い合ってあげる。
そんなふうにしてあげてほしいと思います。
「相手を丸ごと受け止める」そうしたあり方こそが、「絶望の空間」から抜け出すための「小さなきっかけ」となり、救いの蜘蛛の糸になりうるのです。
そして、そうしたあり方は、「死」に関わる場合だけでなく、「うつ的空間」に落ち入りがちな人を助けることにもなりますし、もっと一般的に、誰もが抱える日々の悩みや人生の苦しみを和らげることになるのです。
そして、それは人のためだけではありません。
むしろ、自分のためにこそ、「丸ごと受け止めること」を心がけてみるとよいでしょう。
自分の失敗を責めず、自分を許してやりましょう。
失敗したら、次には失敗しないように気をつけましょう。
何度も失敗するかもしれませんが、それでも許してやりましょう。
変えることのできない自分も認めてやりましょう。
そして自分を変えていく勇気を持ちましょう。
そうやって、自分を「丸ごと受け入れること」が、結果的に、他の人も「丸ごと受け入れること」につながっていくのです。
* * *
自分を認め、世界を受け止めるためには、上に書いたような考え方の練習も有効ですが、瞑想やヨガも役に立ちます。
気が向いたら、いろいろやってみるのも楽しいでしょう。
あなたと、あなたを取り巻く人々の、今日一日がよき日でありますように。
それでは、また、お会いしましょう。
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☆こちらは散文詩です。
[自ら死を選ぶ自由について]
☆こちらもどうぞ
[瞑想のお話: ヴィパッサナー随想 #1 -- ピサヌロークの午後]
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[脱会社人:気分はオフグリッド・あなたは自由に生きたいですか、生きられますか]
[最高の幸せ、フロー体験を知ってますか?]
[哲学から瞑想へ: 人生は哲学するには長すぎる 01 ぼくは万年厨ニ病]
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日本の集団が宿痾として持っている「黒い」体質についてはさておき、この女性が落ち入ってしまった「絶望の空間」について、今日は少し書いてみようと思います。
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社会的に生きる人間という存在のうち、多くの人は、こうした「絶望の空間」に直接入り込むことはなく、一生を終えるのだろうと思います。
けれども、そうした「空間」に入り込んで、逃げ出すことができなくなる、ごく少数の人以外にも、その一歩手前の「うつ的空間」を出たり入ったりする人はある程度いるわけですし、「うつ的」が「絶望」に転じるかどうかは、ほんの少しの偶然とか、ちょっとした気持ちの持ち方の違いとか、普段だったら取るに足りないようなほんとうに小さなことがらによって左右されたりするものなのだと思います。
それは、何か一つの原因がある、というよりは、小さなことの積み重ねによって、あるとき、「うつ的」から「絶望」に入り込んでしまう、というようなことだったりしますから、その流れを変えるということは、決して簡単なことではないのです。
ところが、その決して簡単ではないことが、ほんの小さなことがきっかけで起こる場合もあります。
その「小さなきっかけ」をどうやって見つけることができるのか、あるいは、たとえば、「絶望」に落ち入りそうな人と、その周りにいる人の間で、そういう「きっかけ」がどのように立ち現れうるのか、ということを書くことができたらと思うのです。
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「死にたい」と思ったときに、空を見上げる。
そんな一つの行動が、世界を変えるきっかけになることもあります。
建物の中では、頭の上を見ても天井しか見えないかもしれません。
それでも、天井のその上には、空が広がっています。
その空は、いつも世界中の空とつながっていて、人間のちっぽけさと偉大さを見下ろしているのです。
あなたが死のうが生きようが、この青く広い空のもとでは、どちらも取るに足らず、けれども、そのどちらもが、どうしようもなく愛おしいありようなのだということに、あなたは気づくかもしれません。
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「死にたい」と思うほどに絶望しているその人の、その絶望の気持ちをただそのまま認めてあげる。
それだけで、悪循環を変えるきっかけになりえます。
そう言ったら、なんだ、そんな簡単なことなのか、と思うかもしれませんが、「ただそのまま認める」ということは、実際にそれをしようと思っても、なかなかできるものではありません。
「死にたい」と言われて、「そうか、死にたいのか」とただそのまま聞くことは、必ずしも簡単なことではありません。
「死にたいだって。そんなこと考えちゃだめだ」というのが、ありがちな反応でしょうか。
「死んだ気になったら、なんでもできるよ」とはげましてみたくもなるでしょう。
「死にたいのか。でもあなたが死んだら悲しいな」そんな言葉も出てくるかもしれません。
あるいは、どうして「死にたい」のかを聞いて、「死を選ばず、生きる方向を考えられる」ようなアドバイスを、と考えるかもしれません。
けれども、人が死を考えるときには、もう他の方法は目に入らなくなっているのですから、周りからのそうした働きかけは、残念ながらあまり有効とは言えません。
また、こうした場面で医療につなげることも、必ずしもいい方法とは限りません。
薬物や隔離といった方法に頼りがちな医療のために、返って状態をこじらせる場合もあるからです。
とはいえ、良い医療機関につなげて、睡眠導入剤や抗不安薬などを必要最小限摂ることは、状態をよくする助けになりえます。
医療機関の限界をわきまえた上で、医療機関の助けを借りることは選択肢の一つでしょう。
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そのようなことを考慮した上で、あなたに精神的な余裕があるのなら、「絶望という名の空間」に閉じ込められているその友だちに、ただ寄り添ってあげること。
何を言われてもただ聞いてあげる。
何も言葉が出てこなければ、その沈黙を受け止めて、一緒にその「絶望」と向い合ってあげる。
そんなふうにしてあげてほしいと思います。
「相手を丸ごと受け止める」そうしたあり方こそが、「絶望の空間」から抜け出すための「小さなきっかけ」となり、救いの蜘蛛の糸になりうるのです。
そして、そうしたあり方は、「死」に関わる場合だけでなく、「うつ的空間」に落ち入りがちな人を助けることにもなりますし、もっと一般的に、誰もが抱える日々の悩みや人生の苦しみを和らげることになるのです。
そして、それは人のためだけではありません。
むしろ、自分のためにこそ、「丸ごと受け止めること」を心がけてみるとよいでしょう。
自分の失敗を責めず、自分を許してやりましょう。
失敗したら、次には失敗しないように気をつけましょう。
何度も失敗するかもしれませんが、それでも許してやりましょう。
変えることのできない自分も認めてやりましょう。
そして自分を変えていく勇気を持ちましょう。
そうやって、自分を「丸ごと受け入れること」が、結果的に、他の人も「丸ごと受け入れること」につながっていくのです。
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自分を認め、世界を受け止めるためには、上に書いたような考え方の練習も有効ですが、瞑想やヨガも役に立ちます。
気が向いたら、いろいろやってみるのも楽しいでしょう。
あなたと、あなたを取り巻く人々の、今日一日がよき日でありますように。
それでは、また、お会いしましょう。
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