改憲に王手。ニッポンはホントーに大丈夫なのか?

先の参院選で改憲派が三分の二議席を確保し、いよいよ日本の行く末には暗雲が垂れ込めているように思われます。

もんじゅは廃炉に向かう模様ですが、新型の「高速炉」という愚にもつかない選択肢で利権を温存しようとする勢力につける薬はありません。

沖縄・高江のヘリパッド建設現場では、民主主義とは程遠い手続きで、今日も貴重な自然が破壊され、反対運動をする市民に対して人権を無視した「弾圧」が続きます。

ニッポンという国は、ホントーに大丈夫なのでしょうか?

そして、ぼくたち国民の一人ひとりは、こうした状況下で何ができるのでしょうか?

  *  *  *

うちの親父は建設会社に勤めて、公団関係の仕事をしていたので、役人や政治家の悪口をよく言ってました。

また、かつての東京オリンピックのころに生まれたぼくは、学生運動の時代は知りません。

若いころはSFをよく読みましたが、SF関係の人の文章に、学生運動の時代にSFなど読んでいると、運動の人たちがやってきて、お前らこの時代にSFなんぞにうつつを抜かしていていいと思っているのか、とアジられる、というようなことが書いてあったのを思い出します。

ぼくはと言えば、そんな時代に生きていたらアジられる側に回っただろう、まったくのノンポリで政治音痴の若者でしたが、チェルノブイリの事故をきっかけに、この社会の仕組みに目がいくようになりました。

SF小説を読んで、仲間とあーだこーだ言ってるだけの頭でっかちの人間だったぼくが、チェルノブイリをきっかけに、原発反対の運動に足を突っ込んだり、「障がい」者のための施設で働いたりする中で、この世の中にどんな問題があって、自分には何ができるのかというようなことを、自分なりに肌で感じながら考えることができたのは、人生にとって大切な財産になっていると思います。

  *  *  *

ぼくにとっての、そうした転換期は、二十代の末に訪れましたが、仲間と出していた同人誌に、そんな社会的な思いを綴ったところ、それを読んだ知り合いの女の子から手紙をもらい、堀田善衛の「広場の孤独」をすすめられました。朝鮮戦争を題材に、ある新聞記者の政治に対する「コミットメント」を書いた物語です。

はじめて読む堀田善衛は新鮮で、実際に戦争を経験した日本人が、戦争という政治的事態とどう関わるかを思い悩む、その真摯な物語によって、単純に戦争を悪としては片付けられないという当たり前の事実を確認させられ、人間社会の持つ業というものを考えるきっかけの一つとなりました。

そうして堀田善衛という人物を知ったとき、彼がその晩年に日本を離れ、スペインで平安朝について調べて過ごしたという事実に、若いぼくは少なからぬ違和感を感じました。

なぜ、日本にとどまって、活動を続けなかったのだろうか、と。

しかし、福島第一の事故が起こり、戦前とは異なる様相ではあるにしろ、ニッポンの「天然全体主義」が猛烈な勢いで拡がるのを見るとき、日本という場所から物理的に距離を取ることにも、大きな意味があることを理解するようになりました。

  *  *  *

今ぼくは、西インドのプシュカルという街にいます。

西に広がる砂漠の入り口にあるヒンドゥー教の聖地は、仏教を通じて日本につながり、イスラムによってペルシアにつながっています。

インドはまさにアジアのど真ん中であり、欧米ははるか彼方です。

そのインドも、近年の高度な経済成長とともに欧米からの経済の波にさらされており、地球規模の時代の急速な流れが感じられる一方、数千年来の宗教的、文化的な分厚さにも満ち満ちています。

人は環境によって創られるものです。

日本という国は、地勢的・歴史的に隔離されがちな環境にあります。

日本という文化環境にどっぷり浸かっていると、どうしても自家中毒に陥りやすい。
そんなことを思います。

もちろん、日本という場所での地道な活動こそが、日本を変えていくための一番の大もとには違いありません。

けれど同時に、日本の外からの視点を取り入れ、客観的に物事を捉えることが、日本という国のさらなる成熟のためには必要なことだと思うのです。

そのとき、「日本より進んだ西洋」という考え方が、とてつもなく片寄ったものであることを、十分に認識する必要があるでしょう。

経済・工業・科学的にいえば、西洋的な合理主義は確かに大きな力を持っています。
また、個人の自由という観点からすれば、欧米的民主主義には、まだまだ見習うべき点があります。

しかしながら、日本のかむながら、老子的なタオの思想、仏教的無我、ヒンズーのアドヴァイタといった価値観を考えるとき、実質的に宗教を捨て去った西洋の近代合理主義というものが、表向きは人権の尊重というものの、実際には、他民族の宗教的価値観を破壊し、物質主義を蔓延させ、人間の生きる意味を損なわざるを得ない、経済至上主義的な価値観にすぎないことを忘れるわけにはいきません。

いま世界的な問題となっているテロリズムの蔓延は、イスラム社会と西洋的合理主義との対立として図式化されているわけですが、これを「イスラム社会の無法者によるテロリズム」として一方的に捉えるのではなく、西洋文明に端を発する「経済至上主義によるイスラム社会へのテロリズム」としても理解する必要があります。

つまり、情報的に鎖国状況にある閉塞した日本に必要な外からの視点というものが、アメリカ一辺倒であってはならないのは当たり前としても、西洋的な合理主義にとどまるものではなく、逆に西洋的「経済至上主義」を解毒化するような、多様な文化的視点でなければ十分な意味を持ち得ないと思われるのです。

  *  *  *

福島第一事故以降の日本はといえば、文化的には爛熟、経済的には停滞、思想的には反動といった状態が続き、周りの空気に飲まれてしまったら生き苦しくて仕方のない、なんとも大変な時代になったものだなと思います。

そして、どっぷり日本に浸かっていると、どうしても周りの空気に飲み込まれがちです。

ある人は、東京を離れろと言います。別の人は日本を離れろと言います。
そのようにできる人は、それもいいでしょう。

けれど、それが「できない」人はどうすればいいのでしょうか。

「できない」人や「しない」人でも、どっぷり日本に浸かるのをやめることはできます。
それは結局、意識の問題だからです。

人間というものは、ついつい自分の感じていること、自分の周りで起きていることがすべてなのだと、錯覚しがちです。

けれども、世界というものは、まだまだ広いのです。

どんなに科学技術が発達しても、一人の人間が一生のうちに経験できることには限りがあり、逆にそのことが、ぼくたちに未知の世界というものを保証してくれます。

いつでも心を広く持ち、知らない世界に対して開かれた気持ちでいること。

そして、自分が変わることを恐れず、むしろ楽しむこと。

そういう構えで生きることができれば、日本という国で暮らしているにしても、いつでも違う空気を吸うことができるはずです。

  *  *  *

逆境のときにおいてこそ、人間の持つ力というものが試されます。

今この状況で何ができるのかを考えるとき、特効薬というものはありません。

一人ひとりが自分のできることを地道に続けるだけのことです。

苦しいときにこそ、明日への希望をしっかりと持ち続けることが大切です。

「あの頃はホントにひどかったね」と、いつか笑いながら話せる日が来ることを信じて、今日もゆるゆると歩き続けたいと思います。

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