人生は無意味、ゆえにぼくらは自由 -- 人生は哲学するには長すぎる 04
[写真はペナン島ジョージタウンの中国寺]
「人生は無意味である」という言い方は、いささか厭世的にすぎるかもしれません。
けれど、もともと「無意味」であるがゆえに、ぼくらは自由に「人生の意味」を自分で作り出すことができるのだとも言えます。
生きている人の数だけ、人生の意味はあります。
愛情、家族、財産、名誉。
人生の目的をどこに置くかは、まったくあなたが自由に決めればいいことなのです。
そうはいっても、ある種の「真実」としての「正しい生き方」というのはないものか。
この疑問についても、誰もが納得する「正しい生き方」というものはありません。
とはいえ、アドヴァイタ的に世界が神そのものであると考え、そこでどのように生きるべきかということを科学的な立場から検討するとき、一定程度は普遍化できる「正しい」立場というものは考えられます。
ここで一つ考えておく必要があるのは、「悪」とは何か、という問題です。
世界が神そのものであるとすると、ぼくらが普通「悪」と考えるものも、神の顕れにほかならないことになります。
ぼくらが「悪」とか「善」とか呼ぶものは所詮人間が便宜的にそう分けたものにすぎないのであって、絶対的な区別はないということです。
つまり、アドヴァイタの見方では、人が「悪」と見なすことにも、人には計り知れない意味があるのであって、それは、神の意志にしたがって起こってくることだというわけです。
ですから、それについて、人間があれこれ考える必要は、本当はまったくなくて、ただ「自我」を浄めて、すべてを神にゆだねればいいのだということになります。
こうした考え方は、一見、道徳や倫理といった考えと矛盾するように思えます。
人は善悪を考えずに行動していいというのか、ということです。
けれどこれは、善悪を無視して行動すればよい、と言っているわけではありません。
普通に「善悪を考える」というとき、その「考え」自体が「自我」によって濁っているので、「理性的」に考えた結果が却って誤った結果を生み出す、ということを言っているのです。
「自我」の濁りが消えてなくなれば、「真の自己」は自然に「善」をなす、というわけです。
座禅においても、頭の中のお喋りをやめて、無念無想になることを練習するわけですが、これも、いわゆる理性の働きを止め、考えることをやめることが、ある「正しさ」につながるという話です。
考えないほうがいい、というのは、知識や思考が重視される現代においては、これまた一見奇妙に思えるわけですが、こうしたことに科学的にも裏付けのあることが、最近になって、心理学的・脳神経科学的な知見が重なることにより、徐々に知られるようになって来ました。
と、今回はこの辺まででタブレットを置き、次回はその科学的裏付けについて書くことにします。
(次回は間違いなく最終回となります)
以上、今日もご精読ありがとうございました。
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☆続きはこちらです。
[05 幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話]
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