人生は哲学するには長すぎる 03 「宝石泥棒」が導く遥かなるインドへの道

[写真はマレーシア・ペナン島の中国寺の巨大線香]

全国推定百万人の「楽して生きたい」だけのみなさんに、愛を込めてお送りする今回の記事、「ポップでカジュアルな、行動派のための哲学入門」も三回目となってようやく佳境に入ってまいりました。

初回では、重々しい「フォーマルな哲学」に対して、「人生に対する考え方」くらいの「カジュアルな哲学」という立場を提示し、第二回では、ぼく自身の「カジュアルな哲学」の立場としてアドヴァイタの考え方を説明しました。この世界のすべてが神の顕れである、とするインドのヒンドゥー教に由来する考え方です。

ここでまず話をタイトルに戻して、「人生は哲学するには長すぎる」とぼくが思う理由を書いておきましょう。

この話題の発端はといえば、友人ネギ氏の「一介の庶民にとっては、人生は哲学するには短すぎる」という主張にありました。http://ad2217.hatenablog.com/entries/2016/06/13

ネギ氏のもう一つの記事に大変おもしろく述べられている通り、「フォーマルな哲学」というものは、たいそう時間もかかり、とても根気のいる作業です。
そういう世界が好きで仕事にしてしまったり、仕事にはしないまでも趣味としてこつこつと思考を積み重ねていくといった少数のかた以外には、あまり縁のない世界でしょうし、日々平穏に生きている大多数の人々にとっては、「世界」「存在」「認識」などといった問題について考えることは、お年頃を過ぎてしまえば、まったくといっていいくらい、ありえないことなのでしょう。
http://ad2217.hatenablog.com/entry/2015/12/15/191847

ところで、ぼくのような万年中二病の人間の場合、「生」や「死」、「戦争」と「平和」や「核エネルギー」について、熱心に日夜考えるわけではないですけれど、日々の暮らしの中で、ネット上のあれやこれやを見るにつけ、そういった話題も頭をかすめながら、「あー、なぜ人は生きねばならないのでしょうか」とかなんとか、冗談交じりに真剣に考えているわけです。

そういう不真面目かつ気まぐれ、おまけに飽きっぽい性格のわたしにとっては、「フォーマルな哲学」一本でやっていくというのは、ちょっと無理。そんなに長い間、形式張ったことばかりやっていけないよってことなんです。

まったく人生、フォーマルに哲学するには長すぎるってわけでして。

というわけで、「フォーマルな哲学」は苦手なぼくでも、素人の立場から「カジュアルな哲学」を考えることはなかなか楽しいことなので、このようにあれこれ書いているわけですが、移り気でいい加減な性格のわたしの原点は、元SFファンということにあったりしまして、どちらかというと、科学主義、物質主義的な視点で物事を考える癖があります(厳密な科学は期待しないでくださいね。穴ばかり開いた空想・妄想的科学にすぎませんよ)。

そこで、ぼくの考える「カジュアルな哲学」においては、世界観としては、世界即神のアドヴァイタの立場をとりますが、その世界のありようを見ていく方法論としては、自然科学的な手法を取ります。

アドヴァイタのような神秘的な世界観と自然科学的な方法論の組み合わせは、とても相性のいいものだと思っています。
というのも、世界観や思想のない科学は、「非人間的」な行ないに対して歯止めを持ちえませんし、科学的な態度を持たない神秘主義は、独善的な思想に落ちいりがちだからです。

と、ここまできて、ようやく「カジュアルな哲学」を論じるお膳立てが整ったところで、今回はタブレットを置きたいと思いますが、その前に少し、ぼくがインドの思想に惹かれることになったきっかけの一つについて書いておきますと、これは、元SFファンだったことも実は大きかったんだなぁと、改めて思っています。

というのは、その昔、とても面白く読んだ作家の一人に山田正紀氏がいますが、氏は若いころに中近東を放浪した経験があり、作品にもそうした影響が見られます。

代表作の一つ「宝石泥棒」は、そうした色合いの強い作品ですが、山田氏自体、中近東だけでなくインドにも行ったものと思われますし、日本から見たとき、インドはペルシアを介して文化的にアラブとつながり渾然一体となっている感があります。

欧米ではない異世界としての東洋、その中でも地理的、文化的に中心に位置するインドという地域に対しての関心の芽が、ぼくの場合、十代半ばのころには無意識のうちに準備されていたらしいことに今更のように気づいて、感慨深いものがあるのです。

さて、次回は、中学時代から本ばかり読んで呑気に過ごしてきて、五十を過ぎても大人になりきれぬまま、「カジュアルな哲学」をしながら、楽して生きたいと思ってるだけの適応障害型厨ニ病人間のぼくが考える「人生の無意味」について、そして、その「無意味さ」に代表される「幻の牢獄」からいかにして抜け出すことが可能かについて書いてみたいと思います。
(おそらく次回が最終回のようです)

以上、今日もご精読ありがとうございました。

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☆続きはこちらです。

[04 人生は無意味、ゆえにぼくらは自由]

[05 幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話]

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