人生はすごく苦しいけど、すごく素敵。なのに素敵が見つからないあなたへ。
お釈迦さまことゴータマ・シッダルタさんの生まれし土地、ネパール・ルンビニに滞在中、若い友人しぷとさん(仮名)とtwで楽しい会話をし、質問をいただいた。
ぼくはもう五十すぎ、しぷとさんはたぶん二十代前半、頭の回転では到底かなわないが、こちらには亀の甲より使えるとされる齢(よわい)という道具があるので、ch3ch2oh で濁り気味の頭を駆使しつつ、ちょいと答えてみようかと思う。
* * *
まず、質問に至るまでの説明。
話の発端は、「人生はすごく苦しいけどすごく素敵」とぼくが書いたことで、それに対してしぷとさんは、「自分のTLには苦しんでいる人が多いのだが、どうすれば素敵が手に入るのだろうか」と疑問を投げかけてくれた。
ぼくはこのところヴィパサナ瞑想で仏教づいているから、「痛みは避けられないが、痛みを苦しみとするのは、癖・習慣の問題なので、それに気づけば『素敵』な世界が近づいてくる。けれども、苦しみに愛着がある以上、無理に苦しみを手放す必要はない」と書いた。
するとしぷとさんは、「苦しんでいる人たちは、別に苦しみに愛着はないし、『苦しみ』の方が自分たちを手放してくれないと考えているようだ」という。
ぼくは、「愛着があることに気づくのも難しいし、主客はすぐ転倒する。そしてて、気づくためには『ゆさぶり』が必要である」と述べた。
そして、しぷとさんは、「『ゆさぶり』の話は理想としては分かるが、現実にはどうしたらいいのか」と問うてくれた。
これが今回取り上げる質問です。
* * *
[回答 1.]
まず初めにしぷとさんに伝えたいのは、人のことはとりあえず、放っておいたらいいよ、ということ。
人が苦しんでるのが気になるっていうのは、自分が苦しんでるからなんだよね。
この考え方は、初めは納得いかないかもしれない。
ぼくも R. D. レインの「愛のレッスン」という本で、「人のために泣くのは、自分のために泣いているんだ」という言葉を読んだときは、そこに何か真実があるのは感じたんだけど、はっきり言ってピンとこなかった。
でも、そのうち、なるほど、と思うようになった。
人を嫌いになるのは、その人に自分が持っている嫌な面を見てるからだし、この世界にうんざりするのは、自分にうんざりしてるからなんだ。
だから、人のことを気にするより前に、自分の問題と向かい合ったほうがいい。
まず自分が十分に「素敵」な人生を送ること。それができればいくらでもその「素敵」を人に分けてあげることができるようになる。
これが一番「現実的」な回答だと思います。納得はいかないかもだけど。
[回答 2.]
「気づき」も「ゆさぶり」も「現実的」な話なので、たとえばその二つに、じっくりと時間をかけて、気づきを重ね、ゆさぶりを重ねていけばいい、ということ。
以下その説明。
しぷとさんは、「痛みと苦しみのつながりに気づく」ことや、「ゆさぶり」をかけることを「理想論」というのだけれど、そこの意味がもうひとつぼくには、ピンとこなかった。
ピンとこない上で、回答にするべく言葉を重ねてみると、「痛み」を感じているのも「現実」だし、「苦しみ」を感じてるのも「現実」、だから「痛みと苦しみのつながりに気づく」のもまさに、この「現実」世界においての話で、「理想」の世界の話じゃないんだけどね?
とはいえ、その「気づき」は普段の「現実」の次元では隠れていて見えないから、「理想」世界の話に思えるのかな。
ともあれ、その「隠れて見えない」結びつきに気づくためには「ゆさぶり」が必要で、この「ゆさぶり」も「現実」世界での「ゆさぶり」なわけです。
ここでも、しぷとさんが指摘するように、「ゆさぶり」をかけても相手に「ゆさぶり」として伝わらない、ということがあって、それは「現実」の話でありながら、ふだんの「現実」からは「隠れて見えない」別次元の話ということになりましょう。
この「別次元」が、ぼくには「現実」世界として見えるけど、しぷとさんには「理想」世界に見えるってことみたいだね。
というわけで、改めて回答し直すと、「気づきもゆさぶりも理想世界の話に思えるかもしれないけれど、じっくり時間をかけて、その二つを続けていくことで、それが決して理想世界の話ではなく、現実世界の方法論であることが分かってくる」ということになります。
[回答 3.]
というような回答を二つ並べても、「いや、そうじゃなくて、今すぐ実行ができて、ぱっと結果が分かるような回答がほしいんだ」と言われるかもしれません。
ぼくもそんな回答があったら教えてほしいです。
というのはほとんど嘘で、ぼくはそういう回答はありえないと思っています。
孔子のことはよく知らないながらに、現実世界の決まりごとや、約束ごとの代表としてその名前を使わせてもらうことにすると、孔子的な「こうするべし」という規範は、あくまで便宜上のものだと思うんです。
シッダルタさんは、理想世界の人ではありますが、現実世界で修行者の集団の指導に当たりましたから、修行者集団のために何百もの決まりごとを定め、いわば孔子的な規範も作りました。
でもそれは、あくまで「修行者集団」内でのトラブルを防ぐための便宜的なものであって、それを守っているだけでは、最高に「素敵」に生きられる段階まではいけないんですよね。
もちろんトラブルが未然に防げれば、それなりに「素敵」を感じやすくなるというメリットはある。
だけれども最終的には、各人が「痛みと苦しみのつながりにリアルに気づく」ことが必要で、そのためには八正道が必要ですよ、瞑想が大事ですよ、みたいな話になるわけです。
社会生活をする上で孔子的規範は当然必要ですが、それだけでは、「素敵」を感じるための必要条件が整ったくらいのもので、現実に「素敵」を感じることができるかどうかは、個々の人間が、自分の中に「存在価値」を見いだせるかどうかにかかっていて、それは規範では得られないはずのものです。
今の若い人たちが自分の中に「存在価値」を見いだしにくくなっている事情は、ある程度ぼくにも見当はつきます。
けれども、ぼくとしぷとさんの間には大きな時代の隔たりがありますし、お会いしたことすらないままに、このような話をしているわけですから、ひょっとしてぼくの書いている話は、しぷとさんの想定している範囲から大きく逸脱しているかもしれません。
でも、それは気にせず続きを書くと、ぼく自身の経験としても自分の中に「存在価値」を見いだすことは、未だ十分にはできていませんし、物質的・情報的に「豊かさ」があふれればあふれるほど、自分という存在に固有の「価値」を見いだそうとする試みは一層むずかしいものとなるでしょう。
そのとき、「固有」の価値など実はないのだということに気づき、自分というちっぽけな存在が、そもそもこの世界の切れ端にすぎないことに気づくこと。また、エゴというものは、子どものうちは生まれて生き延びるために確かに必要だけれど、自立して生きられるようになったら、脱ぎ捨ててしまったほうがいい抜け殻にすぎないこと。そんなようなことが分かってくると、世界を深く味わうためには、孔子的規範だけでは足りないことが分かってくるし、残念なことに思えるかもしれませんが、そのように深く世界を味わうことができるのは、限られた少数の人間の特権であることも分かってくるはずです。
そのとき、シッダルタさんは、その特権を私物化せず、すべての命ある存在に還元するという、極めて社会主義的で無謀とも言えるほどの理想を、慈悲という名において周りの人々に説いたわけです。
ここに至って、しぷとさんが言うとおり、これが「理想論」であることは、はっきりしました。
そして同時に、ぼくがシッダルタさんの言葉を借りて言うとおり、これは「現実論」でもあるのです。
シッダルタさんの教えにしたがうことは、多くの人にとっては「理想論」にすぎないでしょう。そしてぼくも丸ごと従うつもりはありません。
けれども、その教えは部分的にではあっても実践可能な「現実論」であるわけで、しぷとさんがそれを実践するかどうかに関わらず、誰かが現に実践している以上、完全に「現実論」なのだ、というのがぼくの立場です。
ということで、しぷとさんが求めるような「現実論」の回答にはなりえませんでしたが、現時点でぼくが答えられるのはこんなところだと思います。
ほかにも色々と細かい論点はありますので、何か疑問があれば、また質問していただければと思います。
こんなに長文の回答はこれが最初にして最後かもしれませんが、できる範囲で言葉を交わし、楽しみながら世界を味わっていけたらと思います。
というわけで、ここまで読んでいただいたみなさん、どうもありがとうございました。
みなさんも何か質問などありましたら、コメント欄などにお気軽に書き込みください。
それでは、今日はこのへんで、ナマステジー!!
ぼくはもう五十すぎ、しぷとさんはたぶん二十代前半、頭の回転では到底かなわないが、こちらには亀の甲より使えるとされる齢(よわい)という道具があるので、ch3ch2oh で濁り気味の頭を駆使しつつ、ちょいと答えてみようかと思う。
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まず、質問に至るまでの説明。
話の発端は、「人生はすごく苦しいけどすごく素敵」とぼくが書いたことで、それに対してしぷとさんは、「自分のTLには苦しんでいる人が多いのだが、どうすれば素敵が手に入るのだろうか」と疑問を投げかけてくれた。
ぼくはこのところヴィパサナ瞑想で仏教づいているから、「痛みは避けられないが、痛みを苦しみとするのは、癖・習慣の問題なので、それに気づけば『素敵』な世界が近づいてくる。けれども、苦しみに愛着がある以上、無理に苦しみを手放す必要はない」と書いた。
するとしぷとさんは、「苦しんでいる人たちは、別に苦しみに愛着はないし、『苦しみ』の方が自分たちを手放してくれないと考えているようだ」という。
ぼくは、「愛着があることに気づくのも難しいし、主客はすぐ転倒する。そしてて、気づくためには『ゆさぶり』が必要である」と述べた。
そして、しぷとさんは、「『ゆさぶり』の話は理想としては分かるが、現実にはどうしたらいいのか」と問うてくれた。
これが今回取り上げる質問です。
* * *
[回答 1.]
まず初めにしぷとさんに伝えたいのは、人のことはとりあえず、放っておいたらいいよ、ということ。
人が苦しんでるのが気になるっていうのは、自分が苦しんでるからなんだよね。
この考え方は、初めは納得いかないかもしれない。
ぼくも R. D. レインの「愛のレッスン」という本で、「人のために泣くのは、自分のために泣いているんだ」という言葉を読んだときは、そこに何か真実があるのは感じたんだけど、はっきり言ってピンとこなかった。
でも、そのうち、なるほど、と思うようになった。
人を嫌いになるのは、その人に自分が持っている嫌な面を見てるからだし、この世界にうんざりするのは、自分にうんざりしてるからなんだ。
だから、人のことを気にするより前に、自分の問題と向かい合ったほうがいい。
まず自分が十分に「素敵」な人生を送ること。それができればいくらでもその「素敵」を人に分けてあげることができるようになる。
これが一番「現実的」な回答だと思います。納得はいかないかもだけど。
[回答 2.]
「気づき」も「ゆさぶり」も「現実的」な話なので、たとえばその二つに、じっくりと時間をかけて、気づきを重ね、ゆさぶりを重ねていけばいい、ということ。
以下その説明。
しぷとさんは、「痛みと苦しみのつながりに気づく」ことや、「ゆさぶり」をかけることを「理想論」というのだけれど、そこの意味がもうひとつぼくには、ピンとこなかった。
ピンとこない上で、回答にするべく言葉を重ねてみると、「痛み」を感じているのも「現実」だし、「苦しみ」を感じてるのも「現実」、だから「痛みと苦しみのつながりに気づく」のもまさに、この「現実」世界においての話で、「理想」の世界の話じゃないんだけどね?
とはいえ、その「気づき」は普段の「現実」の次元では隠れていて見えないから、「理想」世界の話に思えるのかな。
ともあれ、その「隠れて見えない」結びつきに気づくためには「ゆさぶり」が必要で、この「ゆさぶり」も「現実」世界での「ゆさぶり」なわけです。
ここでも、しぷとさんが指摘するように、「ゆさぶり」をかけても相手に「ゆさぶり」として伝わらない、ということがあって、それは「現実」の話でありながら、ふだんの「現実」からは「隠れて見えない」別次元の話ということになりましょう。
この「別次元」が、ぼくには「現実」世界として見えるけど、しぷとさんには「理想」世界に見えるってことみたいだね。
というわけで、改めて回答し直すと、「気づきもゆさぶりも理想世界の話に思えるかもしれないけれど、じっくり時間をかけて、その二つを続けていくことで、それが決して理想世界の話ではなく、現実世界の方法論であることが分かってくる」ということになります。
[回答 3.]
というような回答を二つ並べても、「いや、そうじゃなくて、今すぐ実行ができて、ぱっと結果が分かるような回答がほしいんだ」と言われるかもしれません。
ぼくもそんな回答があったら教えてほしいです。
というのはほとんど嘘で、ぼくはそういう回答はありえないと思っています。
孔子のことはよく知らないながらに、現実世界の決まりごとや、約束ごとの代表としてその名前を使わせてもらうことにすると、孔子的な「こうするべし」という規範は、あくまで便宜上のものだと思うんです。
シッダルタさんは、理想世界の人ではありますが、現実世界で修行者の集団の指導に当たりましたから、修行者集団のために何百もの決まりごとを定め、いわば孔子的な規範も作りました。
でもそれは、あくまで「修行者集団」内でのトラブルを防ぐための便宜的なものであって、それを守っているだけでは、最高に「素敵」に生きられる段階まではいけないんですよね。
もちろんトラブルが未然に防げれば、それなりに「素敵」を感じやすくなるというメリットはある。
だけれども最終的には、各人が「痛みと苦しみのつながりにリアルに気づく」ことが必要で、そのためには八正道が必要ですよ、瞑想が大事ですよ、みたいな話になるわけです。
社会生活をする上で孔子的規範は当然必要ですが、それだけでは、「素敵」を感じるための必要条件が整ったくらいのもので、現実に「素敵」を感じることができるかどうかは、個々の人間が、自分の中に「存在価値」を見いだせるかどうかにかかっていて、それは規範では得られないはずのものです。
今の若い人たちが自分の中に「存在価値」を見いだしにくくなっている事情は、ある程度ぼくにも見当はつきます。
けれども、ぼくとしぷとさんの間には大きな時代の隔たりがありますし、お会いしたことすらないままに、このような話をしているわけですから、ひょっとしてぼくの書いている話は、しぷとさんの想定している範囲から大きく逸脱しているかもしれません。
でも、それは気にせず続きを書くと、ぼく自身の経験としても自分の中に「存在価値」を見いだすことは、未だ十分にはできていませんし、物質的・情報的に「豊かさ」があふれればあふれるほど、自分という存在に固有の「価値」を見いだそうとする試みは一層むずかしいものとなるでしょう。
そのとき、「固有」の価値など実はないのだということに気づき、自分というちっぽけな存在が、そもそもこの世界の切れ端にすぎないことに気づくこと。また、エゴというものは、子どものうちは生まれて生き延びるために確かに必要だけれど、自立して生きられるようになったら、脱ぎ捨ててしまったほうがいい抜け殻にすぎないこと。そんなようなことが分かってくると、世界を深く味わうためには、孔子的規範だけでは足りないことが分かってくるし、残念なことに思えるかもしれませんが、そのように深く世界を味わうことができるのは、限られた少数の人間の特権であることも分かってくるはずです。
そのとき、シッダルタさんは、その特権を私物化せず、すべての命ある存在に還元するという、極めて社会主義的で無謀とも言えるほどの理想を、慈悲という名において周りの人々に説いたわけです。
ここに至って、しぷとさんが言うとおり、これが「理想論」であることは、はっきりしました。
そして同時に、ぼくがシッダルタさんの言葉を借りて言うとおり、これは「現実論」でもあるのです。
シッダルタさんの教えにしたがうことは、多くの人にとっては「理想論」にすぎないでしょう。そしてぼくも丸ごと従うつもりはありません。
けれども、その教えは部分的にではあっても実践可能な「現実論」であるわけで、しぷとさんがそれを実践するかどうかに関わらず、誰かが現に実践している以上、完全に「現実論」なのだ、というのがぼくの立場です。
ということで、しぷとさんが求めるような「現実論」の回答にはなりえませんでしたが、現時点でぼくが答えられるのはこんなところだと思います。
ほかにも色々と細かい論点はありますので、何か疑問があれば、また質問していただければと思います。
こんなに長文の回答はこれが最初にして最後かもしれませんが、できる範囲で言葉を交わし、楽しみながら世界を味わっていけたらと思います。
というわけで、ここまで読んでいただいたみなさん、どうもありがとうございました。
みなさんも何か質問などありましたら、コメント欄などにお気軽に書き込みください。
それでは、今日はこのへんで、ナマステジー!!
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