悟ってしまえば「悪」なんてなくなるんです
般若心経というお経があります。 このお経の内容をひと言で説明すると、「この世のすべては空(くう)である」ということになります。 と、そのように言うことは簡単なのですが、ここで「空とは何か」というのが難しいところで、というのも、これは言葉では説明できない、自ら経験して、体感しなければならないことだからなのです。 もちろん般若心経の中でも「空」とは何かが説明してあり、例えば「無老死亦無老死尽」とあります。 これは「老死もなく老死が尽きることもない」と読むわけですが、これが「老死は空である」ということの説明になっています。 ふつうに「空」というとき、例えば「空洞」という言葉は「中が空っぽ」ということですから、「中がない」ということです。 けれども、般若心経が説明するのは、あるものが「空である」ということは、それが「ない」と同時に、そのないものが「尽きることもない」というのですから、普通に考えれば矛盾した話で、何を言っているのか分かりません。 そこで、般若心経に直接は出てきませんが、「悪」について考えて見ましょう。 般若心経の考え方では、この世のすべてが空なのですから、「悪もまた空」ということになります。 すると、これを「老死」のときと同じように言い換えてみると、「悪はないが、悪が尽きることもない」となります。 これがもし、単に「この世に悪はない」という意味だったら、どういうことになるでしょうか。 この世に悪はないのですから、何をやってもかまわない。そういうことも言えてしまいます。 けれども、仏教は悪いことをしてはいけない。と教えます。悪いことをすれば、その結果が悪いこととなって自分に降り掛かってくるから、悪いことはしないほうがよい、というわけです。 ここに「悪が尽きることはない」という言葉の意義が生じます。 お釈迦さまは悟りを開いたので、すべてが空であることを知りました。 悟りの世界では「悪」も「善」もないのです。 けれども、俗世の意味での「悪」がなくなるわけではありません。 そこで、悟りを開いたのちも、仏陀が「悪」をなすことはないのです。 仏陀は「悪」も「善」などないことを知りながら、けれども、俗世には「善悪」があることも知って、「悪」はなさず、「善」のみをなすわけです。 以上が「空とは何か」という