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2016年6月28日火曜日

幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話 -- 人生は哲学するには長すぎる 05


その昔、明石家さんまさんが「幸せーってなんだっけ、なんだっけ」と歌うコマーシャルがありました。

人間誰もが、幸せを求めて生きています。

けれど、人生の意味や目的が人それぞれである以上、幸せの形もひとそれぞれに違いありません。

一方で、幸せを感じるということについて、科学的な立場からその定義をし、心理学的、生理学的、あるいは脳神経科学的な考察をすることが可能なほどにまで、現在の科学は人間の心についての理解を深めつつあります。

というわけで、「カジュアルな哲学」の立場から「人はなぜ生きるのか」を論じるこのシリーズの最終回は、「人は幸せのために生きる」という前提のもと、「幸せとは何か」、「どうすれば幸せが得られるのか」を科学的に考えていきたいと思います。

ところで前回は、「正しい生き方はあるのか」ということを考えました。そして世界即神、あるいは仏教的な立場から、「考えないこと・言葉を使わないことの正しさ」を説明しました。
考えること、言葉を使うことをやめることで、自我の濁りが取れて、直感的に正しく生きられるようになる、という話です。

この話と重ねて幸せの定義を考えると、「幸せとは、考えること・言葉を使うことを必要としない状態である」ということが言えます。

たとえばあなたが、おいしい食べ物を食べて「幸せだなぁ」と感じているとします。
そのとき、ただそれを感じているだけで幸せですよね。

このとき、わざわざ言葉を使って「どうして幸せなのか」ということについて考えて、「自分は今おいしいものを食べているから幸せなのだ」とか、「この幸せはこれを食べ終わったら終わってしまう」とか考えていたら、せっかくの幸せな気分を味わうことなどできなくなってしまういますもんねぇ。

ここで「考えること・言葉を使うことを必要としない」という部分を、神経科学的な言葉で言い換えると、「幸せとは、社会神経系が働いている状態で、しかも『今この瞬間』を味わっている状態である」ということになります。
(「今この瞬間」を味わっているとき、言葉はいりません)

さて、この社会神経系という用語はスティーブン・ポージェスという行動神経科学の研究者が提唱するポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)の言葉です。

ポージェスの説では、社会神経系が働いているとき、わたしたちはリラックスして、お互いに共感を感じながら、場所と時間を共有することができます。

逆にいうと、現代のように高度に分業化し、組織化された社会では、絶え間ないストレスのために、社会神経系が十分に働かない状況の中で人間は生きることになり、幸せを感じる暇もなく、日々を生きているとすら言えるわけです。

ですから、この社会神経系を働かせてやることが、まず肝心で、そのためには、呼吸法や瞑想もよいのですが、緊張しっぱなしの体をリラックスさせてあげるためには、体に直接働きかけることが有効となります。

適度な運動をするのもよいでしょうし、心が落ち着く音楽を聴くのもよいでしょう。また、強すぎないマッサージで体をほぐすのもよいでしょう。お風呂で体を温めるのも効果的です。
ヨガやフェルデンクライスといった、体を動かすことをしっかり意識する方法もおすすめです。

(ポージェスは副交感神経の働きを持つ腹側迷走神経複合体のことを社会神経系と呼んでいます。社会神経系が働いている状態の中には、考えたり、言葉を使ったりする場面もあるのですが、ここでは、そうしたケースは除外して話を進めます。また、ポリヴェーガル理論についてはこれ以上は説明しませんので、興味のある方はこちらこちらをどうぞ)

次に、この社会神経系が働いているという前提の上で、幸せを感じるのに重要なもうひとつの条件が、「今この瞬間を味わっている」ということです。

アメリカのハーバード大学で行われたある研究では、意識が今していることから離れて、ほかのことを考えてしまうと幸せが感じられなくなることが報告されています。
[Happiness is Paying Attention]

また、仏教の瞑想法であるヴィパッサナーや、それをベースにしたマインドフルネスなど、いろいろな瞑想を長年に渡り実践している人は、脳の中で、人に対して共感を感じる部位や、意識をどこに向けるかをコントロールする部位が、普通の人と比べて発達しており、こうした実践者は、瞑想の経験を持たない人よりも幸せを感じているとの結果もあります。
[My Trouble With Mindfulness]
[瞑想は脳を守る、脳の容積が増える]

つまり、瞑想を続けることで、幸せを感じるための「脳力」を鍛えることができるというわけです。

社会神経系の話に戻りますと、瞑想をすることによっても、社会神経系を働かせる助けにはなるはずですが、ストレスにさらされて常に社会神経系が働きにくい状態になっていると、瞑想だけで体を深くリラックスさせることは、なかなか難しいことになります。

そこで、日頃、呼吸や意識に注意を向けることと合わせて、体の側からもチューニングすることが社会神経系を働かせるためには有効の方法となります。

これが、フェルデンクライスやヨガをおすすめする理由です。
(もちろん、体を動かすことなら、お好みでランニングでも水泳でも太極拳でもかまいません)

……とまぁ、そんなわけで、だいぶ端折って書いてますが、世界即神のアドヴァイタ的世界観からしたら、実はこんな科学的説明は、みんなママゴト遊びにすぎないのでして、とはいえ、現代という(擬似)科学主義全盛の時代の申し子であるわたしとしましては、こうして「科学的」な物語を紡ぐことが、日頃ぐらぐらしがちな気持ちを落ち着かせる役に立つものですから、以上五回の長きに渡り、長い人生、正統的な哲学ばかりやってたら飽きちゃいますので、人生の暇つぶし程度にいろいろと考えている「哲学もどき」をつらつらと書き連ねて見た次第です。

以上、今日はいつもより長い文章をご精読いただき、大変ありがとうございました。

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☆シリーズ「人生は哲学するには長すぎる」(全五回)の一覧です。
 [01 ぼくは万年厨ニ病]

[02 厨ニ病患者のインド万歳]

[03 「宝石泥棒」が導く遥かなるインドへの道]

[04 人生は無意味、ゆえにぼくらは自由]

[05 幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話]

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2016年6月20日月曜日

人生は無意味、ゆえにぼくらは自由 -- 人生は哲学するには長すぎる 04


[写真はペナン島ジョージタウンの中国寺]

「人生は無意味である」という言い方は、いささか厭世的にすぎるかもしれません。
けれど、もともと「無意味」であるがゆえに、ぼくらは自由に「人生の意味」を自分で作り出すことができるのだとも言えます。

生きている人の数だけ、人生の意味はあります。
愛情、家族、財産、名誉。
人生の目的をどこに置くかは、まったくあなたが自由に決めればいいことなのです。

そうはいっても、ある種の「真実」としての「正しい生き方」というのはないものか。
この疑問についても、誰もが納得する「正しい生き方」というものはありません。

とはいえ、アドヴァイタ的に世界が神そのものであると考え、そこでどのように生きるべきかということを科学的な立場から検討するとき、一定程度は普遍化できる「正しい」立場というものは考えられます。

ここで一つ考えておく必要があるのは、「悪」とは何か、という問題です。

世界が神そのものであるとすると、ぼくらが普通「悪」と考えるものも、神の顕れにほかならないことになります。
ぼくらが「悪」とか「善」とか呼ぶものは所詮人間が便宜的にそう分けたものにすぎないのであって、絶対的な区別はないということです。

つまり、アドヴァイタの見方では、人が「悪」と見なすことにも、人には計り知れない意味があるのであって、それは、神の意志にしたがって起こってくることだというわけです。
ですから、それについて、人間があれこれ考える必要は、本当はまったくなくて、ただ「自我」を浄めて、すべてを神にゆだねればいいのだということになります。

こうした考え方は、一見、道徳や倫理といった考えと矛盾するように思えます。
人は善悪を考えずに行動していいというのか、ということです。

けれどこれは、善悪を無視して行動すればよい、と言っているわけではありません。
普通に「善悪を考える」というとき、その「考え」自体が「自我」によって濁っているので、「理性的」に考えた結果が却って誤った結果を生み出す、ということを言っているのです。

「自我」の濁りが消えてなくなれば、「真の自己」は自然に「善」をなす、というわけです。

座禅においても、頭の中のお喋りをやめて、無念無想になることを練習するわけですが、これも、いわゆる理性の働きを止め、考えることをやめることが、ある「正しさ」につながるという話です。

考えないほうがいい、というのは、知識や思考が重視される現代においては、これまた一見奇妙に思えるわけですが、こうしたことに科学的にも裏付けのあることが、最近になって、心理学的・脳神経科学的な知見が重なることにより、徐々に知られるようになって来ました。

と、今回はこの辺まででタブレットを置き、次回はその科学的裏付けについて書くことにします。
(次回は間違いなく最終回となります)

以上、今日もご精読ありがとうございました。


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☆続きはこちらです。

[05 幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話]

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2016年6月16日木曜日

人生は哲学するには長すぎる 03 「宝石泥棒」が導く遥かなるインドへの道


[写真はマレーシア・ペナン島の中国寺の巨大線香]

全国推定百万人の「楽して生きたい」だけのみなさんに、愛を込めてお送りする今回の記事、「ポップでカジュアルな、行動派のための哲学入門」も三回目となってようやく佳境に入ってまいりました。

初回では、重々しい「フォーマルな哲学」に対して、「人生に対する考え方」くらいの「カジュアルな哲学」という立場を提示し、第二回では、ぼく自身の「カジュアルな哲学」の立場としてアドヴァイタの考え方を説明しました。この世界のすべてが神の顕れである、とするインドのヒンドゥー教に由来する考え方です。

ここでまず話をタイトルに戻して、「人生は哲学するには長すぎる」とぼくが思う理由を書いておきましょう。

この話題の発端はといえば、友人ネギ氏の「一介の庶民にとっては、人生は哲学するには短すぎる」という主張にありました。http://ad2217.hatenablog.com/entries/2016/06/13

ネギ氏のもう一つの記事に大変おもしろく述べられている通り、「フォーマルな哲学」というものは、たいそう時間もかかり、とても根気のいる作業です。
そういう世界が好きで仕事にしてしまったり、仕事にはしないまでも趣味としてこつこつと思考を積み重ねていくといった少数のかた以外には、あまり縁のない世界でしょうし、日々平穏に生きている大多数の人々にとっては、「世界」「存在」「認識」などといった問題について考えることは、お年頃を過ぎてしまえば、まったくといっていいくらい、ありえないことなのでしょう。
http://ad2217.hatenablog.com/entry/2015/12/15/191847

ところで、ぼくのような万年中二病の人間の場合、「生」や「死」、「戦争」と「平和」や「核エネルギー」について、熱心に日夜考えるわけではないですけれど、日々の暮らしの中で、ネット上のあれやこれやを見るにつけ、そういった話題も頭をかすめながら、「あー、なぜ人は生きねばならないのでしょうか」とかなんとか、冗談交じりに真剣に考えているわけです。

そういう不真面目かつ気まぐれ、おまけに飽きっぽい性格のわたしにとっては、「フォーマルな哲学」一本でやっていくというのは、ちょっと無理。そんなに長い間、形式張ったことばかりやっていけないよってことなんです。

まったく人生、フォーマルに哲学するには長すぎるってわけでして。

というわけで、「フォーマルな哲学」は苦手なぼくでも、素人の立場から「カジュアルな哲学」を考えることはなかなか楽しいことなので、このようにあれこれ書いているわけですが、移り気でいい加減な性格のわたしの原点は、元SFファンということにあったりしまして、どちらかというと、科学主義、物質主義的な視点で物事を考える癖があります(厳密な科学は期待しないでくださいね。穴ばかり開いた空想・妄想的科学にすぎませんよ)。

そこで、ぼくの考える「カジュアルな哲学」においては、世界観としては、世界即神のアドヴァイタの立場をとりますが、その世界のありようを見ていく方法論としては、自然科学的な手法を取ります。

アドヴァイタのような神秘的な世界観と自然科学的な方法論の組み合わせは、とても相性のいいものだと思っています。
というのも、世界観や思想のない科学は、「非人間的」な行ないに対して歯止めを持ちえませんし、科学的な態度を持たない神秘主義は、独善的な思想に落ちいりがちだからです。

と、ここまできて、ようやく「カジュアルな哲学」を論じるお膳立てが整ったところで、今回はタブレットを置きたいと思いますが、その前に少し、ぼくがインドの思想に惹かれることになったきっかけの一つについて書いておきますと、これは、元SFファンだったことも実は大きかったんだなぁと、改めて思っています。

というのは、その昔、とても面白く読んだ作家の一人に山田正紀氏がいますが、氏は若いころに中近東を放浪した経験があり、作品にもそうした影響が見られます。

代表作の一つ「宝石泥棒」は、そうした色合いの強い作品ですが、山田氏自体、中近東だけでなくインドにも行ったものと思われますし、日本から見たとき、インドはペルシアを介して文化的にアラブとつながり渾然一体となっている感があります。

欧米ではない異世界としての東洋、その中でも地理的、文化的に中心に位置するインドという地域に対しての関心の芽が、ぼくの場合、十代半ばのころには無意識のうちに準備されていたらしいことに今更のように気づいて、感慨深いものがあるのです。

さて、次回は、中学時代から本ばかり読んで呑気に過ごしてきて、五十を過ぎても大人になりきれぬまま、「カジュアルな哲学」をしながら、楽して生きたいと思ってるだけの適応障害型厨ニ病人間のぼくが考える「人生の無意味」について、そして、その「無意味さ」に代表される「幻の牢獄」からいかにして抜け出すことが可能かについて書いてみたいと思います。
(おそらく次回が最終回のようです)

以上、今日もご精読ありがとうございました。

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☆続きはこちらです。

[04 人生は無意味、ゆえにぼくらは自由]

[05 幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話]

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2016年6月15日水曜日

人生は哲学するには長すぎる 02 厨ニ病患者のインド万歳



前回、「哲学」という日本語には重々しい響きがあるけれど、英語でいうフィロソフィ philosophy の場合は、「人生に対する考え方」程度の軽やかな意味合いがあるということを書きましたが、これをここでは「カジュアルな哲学」と呼ぶことにしましょう。

また、ここでの「カジュアルな哲学」の対象としては、「まったくこの世界ってのはどうなってるんだ」とか、「なんでわざわざ生きなきゃならんのよ」とか、「おれはもっと楽して生きたいだけなんだよ」とかいった、中二病的な悩みやぼやきを想定することにします。

この「カジュアルな哲学」について言えば、ぼくの大好きな分野といってもいいくらいです。
とはいえ、このくらい範囲を限定しても、問題に対しては様々なアプローチの仕方がありますから、前提とする考え方およびその方法論についても述べる必要があります。

前提とする考え方は、インドのヒンズー教にもとづくアドヴァイタ(日本語では不二一元論といいます)で、方法論は科学的なものです。

アドヴァイタの考え方は、この世界全体が神の顕れであり、自我のために曇った人間の認識が洗われて、真の自己が意識されるとき、世界=神と、自己が同一のものであるという悟りに達するというものです。(この悟りの境地を「梵我一如」といいます)

哲学というよりは宗教の話に思われるかもしれませんが、もともと神学は哲学の一部だったわけですし、西洋でも17世紀のオランダの哲学者スピノザの考えはアドヴァイタと極めて近いものです。
(『スピノザ ―「神即自然」の汎神論』などご参照ください。なお、かのアインシュタインは「自分はスピノザのいう神なら信じる」という言葉を残しています)

アドヴァイタや梵我一如は馴染みのない言葉かもしれませんが、仏教の考えもこれにかなり近いものです。
仏教の言葉では「全ては苦で、万物は無常であり、この世に自分と呼べるものは存在しない(無我)、このことを正しく知るときその人は涅槃の境地に至る」ということになります。このとき、涅槃とは、自我が消え、法(ダルマ)という根本原理そのものを生きる境地と言えましょうから、法と神、無我と真の自己を同一視すれば、梵我一如を別の言葉でいったものと解釈することもできます。

さて、この世界に不満タラタラで、楽して生きたいだけの「不健全」きわまりない万年厨ニ病のわたくしが、どうして、「インド万歳、仏教がんばれ」になってしまったのか、そして、それがなにゆえ「哲学するには人生長すぎる」につながるのかについては、次回か、ひょっとすると次々回くらいで明らかになるものと思われます。
(どうもあと二回くらい続くようです)

以上、ご精読ありがとうございました。

[前回も紹介した RD レインの「レインわが半生―精神医学への道」ですが、実存主義や現象学の視点からいくつもの問題作をものしたイギリスの精神科医の自伝です。「ひき裂かれた自己」がもっとも有名ですが、この自伝は他の学術的著作と違って読みやすい上に、レインの主張の基礎といっていい内容ですので、関心ある方にはご一読をおすすめします]

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☆続きはこちらです。

[03 「宝石泥棒」が導く遥かなるインドへの道]

[04 人生は無意味、ゆえにぼくらは自由]

[05 幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話]

☆こちらもどうぞ

[「人生長すぎる」とお嘆きのあなたへ - エクハルト・トールの場合]


2016年6月14日火曜日

人生は哲学するには長すぎる 01 ぼくは万年厨ニ病


「哲学」という言葉には、ずいぶん大それた響きがありますが、英語のフィロソフィ philosophy という言葉の場合は、「人生に対する考え方」程度の軽い使い方をするのだという話を、遠い昔なにかで読んで、「へー、そうなんだ」と感心した覚えがあります。

試しに手元の辞書で引いてみると、"a set of ideas about how to do something or how to live" という記述があり、これの意味するところは「何かをなす、あるいは人生を生きるにあたって、どのような方法を取るかについてのひとまとまりの考え方」といったことですから、日本語の「哲学」よりはだいぶ軽やかな感じがします。
(なお手元の辞書というのは Merriam-Webster Dictionary の android 版で、いわゆる英英辞典というやつですが、ネット上のほかの辞書よりやや収録語句が少ないきらいはありますが、無料で、しかもオフラインで使えるので重宝しています。iphone 版もあるようです)

さて、友だちのネギさんが「人生は哲学するには短すぎる」という記事を書いていて、その中で、哲学というものは「職業哲学者ならともかく、一介の庶民が手を出すには時間がかかり過ぎる」と述べた上で「一介の庶民は何十年も先に訪れる死などというものに悩み苦しんで人生を無駄に過ごす暇はないのである」とおっしゃっているのは、けだし名言と言えましょう。

ただし、これはネギさんのような健全な精神の庶民にのみ当てはまる言葉なのでありまして、ぼくのような「不健全」な人生を送る人間においては事情はやや異なってきます。

ぼくの場合、「この世界ってのは、一体どういうシロモノなのか」とか、「どうして俺はこんな世界で、ごちゃごちゃごちゃごちゃ苦しみながら生きなきゃならんのだ」とか、「もっと楽に生きる方法があればなぁー」とか、そういう「哲学」未満のうたかたの考えの切れ端が、ことあるごとに浮かんでくるわけです。

これは直接的には、ネギさんのいう「死に悩む」ということに該当しませんが、「死とは何か」の裏返しとしての「生とは何か」に悩み続けているわけですから、実質的に同じことと言えましょう。

ところで、こうした「哲学」未満の悩みというものは、一定程度の若者にとって、ある時期に通避けては通れない、取り組まざるをえない課題になりもします。けれど若い時期にはそうした問題で思い悩んでも、ある程度の時間をそれに費やしたのちは、不完全であるにせよ自分なりの解答を出すことで、それを乗り越えて大人になっていく……。これが多数派の辿る道筋であります(ネギさんの場合は、またそれとも異なるようですが)。ところが、わたしのような「不健全」な人間は五十を過ぎてもそれを抜け出すことができないわけです。

ここで、こうした「哲学」的な悩みを卒業できない「大人」についても「中二病」の範疇に入るものとして扱っても間違いではないでしょう。(中学校も三年生にもなれば、高校受験のことなど考えて、十分な社会化をしなければならない、といった背景が想像される素敵な言葉です)

なかなか「哲学」という本題に入れませんが、万年厨ニ病のわたしにとって、「なぜ、哲学するには人生が長すぎるのか」については、次回以降で書いていきたいと思います。
(多分あと二回くらいは書くような気が)

なお、先に挙げたネギさんの言葉は次のように続きます。

哲学者はともかく、一介の庶民は何十年も先に訪れる死などというものに悩み苦しんで人生を無駄に過ごす暇はないのである。ラーメン、カレー、ビールと旨いものを飲み食いし、将来のことと言えば来期のアニメにわくわくするくらいでよいのだ。
自分の未来についてすら、それで十分であり、ましてや国や世界の未来についてどうにもならないことを心配する必要などないのである。法律守って比較的マシな候補者に投票していれば、それで十分だ。

庶民派健全哲学で素晴らしいです。

以上、ご精読ありがとうございました。

[なお、いわゆる哲学の本ではありませんが、ぼくにとっては哲学にとても近い世界が書かれているという意味で、RD レインの「レインわが半生―精神医学への道」を挙げておきます。この本はエヴァンゲリオンとの関係で最近の人にも知られるイギリスの精神科医が書いたものですが、ほかではあまり指摘されることのない、人間の生と社会の奇妙な本質について描かれた、類まれなノンフィクションだと思います]

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☆続きはこちらです。

[02 厨ニ病患者のインド万歳]

[03 「宝石泥棒」が導く遥かなるインドへの道]

[04 人生は無意味、ゆえにぼくらは自由]

[05 幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話]

☆こちらもどうぞ

[「人生長すぎる」とお嘆きのあなたへ - エクハルト・トールの場合]