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2016年11月6日日曜日

03 フロリンダ・ドナー「シャボノ」-- アマゾンの奥地、ヤノマミ族の暮らし


フロリンダ・ドナー「シャボノ」那賀乃とし兵衛訳、第三回
Frolinda Donner "Shabono" 1982 a Laurel Book
[今回は四百字詰め原稿用紙35枚ほどの分量です]

[この試訳は編集中のものですが、ネット上で公開することにより、多くの方からのご意見をいただけたらと考え、こちらに置くことにします。それでは、お楽しみください]

☆第一回、第二回はこちらです。
[フロリンダ・ドナー「シャボノ」第一回]
[フロリンダ・ドナー「シャボノ」第二回]

☆この作品の簡単な紹介はこちらにあります。
[本の紹介: フロリンダ・ドナー「シャボノ」]

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第一部 (承前)

**028**


 ミラグロスはマチェーテを手に、川沿いの細い径を先に立って歩いた。破れた赤いシャツの間から、筋肉質の背中が見え隠れしている。カーキ色のズボンは、ふくらはぎの半ばまで裾がまくり上げられ、綿の紐で腰の上に留めてあった。実際には中くらいの背丈なのだが、そのせいでずっと背が低く見えた。歩くペースは速かった。重心を足の外側に置き、かかとの方は狭め、足先は扇のように広げ、がに股で歩いた。髪を短く刈り、頭の天辺は広く剃ってあるので、僧侶のように見えた。
 森へ入っていく道に足を踏み入れる前に、私は立ち止まり、後ろを振り返った。カーブを描く川の向こう岸に、布教所の建物が少しだけ見えた。早朝の日の光の中、わずかに姿をのぞかせる布教所は、すでに手の届かないところにあるもののように思えた。一週間を過ごしたその場所とそこにいる人々から、そして慣れ親しんだ全てのものから切り離されるような、奇妙な感じがした。自分の中である変化が起きたのを私は感じた。一つの段階の終わり、あるいは一つの転回点を示す川を越えたとでもいうような感じだった。感じたことが顔に表れていたに違いない。横にいるアンゲリカを見ると、その眼差しに、彼女がそのことを理解しているのが見て取れたのだ。
「ずいぶん遠くまで来たな」私たちの隣に立ち止まると、ミラグロスが言った。胸の前で両手を組み、川に沿って視線を動かした。**029**水の上でまぶしく輝く朝の光りが、その顔に反射し金色に染めている。やせて骨ばった顔の上の小さな鼻と丸い下唇は、茶色いつり目の周りの、深いくぼみとしわとは対照的で、意外な傷つきやすさを感じさせた。不思議なほどにアンゲリカの目と似ており、時間を越えた表情を浮かべているところもそっくりだった。
 そびえる木々の下、私たちは押し黙って歩いた。つる植物と枝や葉、そしてつたと根が絡まり合う壮大な藪に隠されて、道は続いていた。透明なベールのように蜘蛛の巣が顔にまとわりついた。見えるものといえば緑ばかりで、鼻には湿ったにおいが感じられるばかりだった。竹の生い茂る藪の陰の中、何本もの倒木を乗り越え、迂回し、いくつもの小川や沼を越えた。私の前を歩くのはミラグロスのこともあれば、アンゲリカのこともあった。アンゲリカはU字型のかごを背にしていたが、そのかごは木の皮の紐を額に回して背負うようになっていた。かごの中はひょうたん、キャッサバ・パン、サーディンの缶詰で一杯だった。
 どの方角に向かって歩いているのか、まったく見当がつかなかった。太陽は見えず、濃い葉陰を通して日の光が感じられるだけだった。少しも動くことなく立っている木々の、信じられないほどの高さを見上げていると、じきに首が痛くなってしまった。真っ直ぐな椰子だけが、光へと向かう打ち負かされることのない勢いで空へと伸び、その銀色の葉の影によって、少しばかりの空をその周りにのぞかせていた。
「少し休まなくちゃ」そう言うと、私は倒木の幹にどっかり腰を下ろした。時計を見ると午後三時を過ぎていた。六時間以上歩き続けたことになる。「お腹がぺこぺこだわ」
 アンゲリカは、かごからひょうたんを取り出して私に渡すと、隣に座った。「水を汲んでおくれ」あごで近くを流れる浅い小川を指しながら、そう言った。
 ミラグロスは、足を大きく広げ手のひらは両ももに置いた姿勢で川の真ん中でしゃがみ込み、唇が水に触れるまで体を前に屈めた。そして、鼻を濡らすこともなく水を飲んだ。「飲んでみたらいい」そう言うと、彼は真っ直ぐに立った。**030**五十歳に近いはずだが、予想もできないほど優雅な動きをするので、ずっと若々しく見えた。軽く微笑みを浮かべると彼は川の中を下流へと歩いて行った。
「気をつけないと、ずぶ濡れだよ」からかうような笑みを浮かべながら、アンゲリカが大きな声を上げた。
 彼女の声に驚いて、私はバランスを崩し、頭から水の中に倒れこんでしまった。「ミラグロスのようには、うまく飲めないな」何気なさを装ってそう言うと、水を汲んだひょうたんをアンゲリカに渡した。「私はひょうたんから飲んだほうがよさそう」私は彼女の隣に座り、びしょ濡れのテニスシューズを脱いだ。「ジャングルで履くのに一番いいのはスニーカーだなんて言う人は、実際にスニーカーを履いて六時間も歩いたことのない人でしょうね」足は赤く腫れ、豆ができて、 足首には引っかき傷ができ、血が滲んでいた。
「そんなにひどかない」私の両足を丹念に見て、アンゲリカが言った。そして足の裏と足の指を優しく指で触った。「しっかりしたいい皮膚をしてるじゃないか。どうして裸足で歩かないんだい? 濡れた靴なんか履いてても足がふやけるばかりだよ」
 私は自分の足の裏を見た。空手を何年かやっていたため、すっかり固い皮膚になっている。「蛇を踏んづけたら?」私は聞いた。「それに棘とか?」爬虫類は一匹も見かけなかったが、ミラグロスとアンゲリカが足の棘を抜くために立ち止まるのは何度も見ていた。
「蛇を踏んづけるなんて、よほどの間抜けじゃなきゃありえないね」私の足を自分の膝から下ろしながら、彼女は言った。「それに蚊と比べたら棘なんてどうってことないさ。お前はほんとに運がいいよ、あの小さい悪魔たちが〈理性の人〉たちを刺すようには、お前のことは刺さないんだから」その理由の手がかりが見つかると思っているかのように、彼女は私の手と腕をなでた。「どうしてだろうね?」
 布教所にいるときからアンゲリカは、私が先住民族と同じように、蚊帳なしで眠るのを見て驚いていた。「悪魔の血の持ち主なのかも」そう言って私はにやりと笑った。彼女の戸惑う顔を見て、子どもの頃、よく父と一緒に蘭を探しにジャングルへ行った話をした。**031**父は蚊であれ蝿であれ、周りにいる刺す虫には必ず悩まされた。なぜか私は大丈夫だった。一度など父は、蛇に咬まれたことまである。
「お父さんは死んじまったのかい?」アンゲリカが言った。
「いいえ。でもとっても不思議な出来事だったの。同じ蛇が私のことも咬んでね。父が叫んだ直後に私も叫んだわ。そしたら私がからかってるんだと父は思ったのよ、私が足についた小さな赤い咬み跡を見せるまではね。父と同じように腫れたり紫になったりはしなかったけど。父の友だちが車で近くの町まで連れて行ってくれて、父はそこで血清を注射されたわ。回復するまで何日かかかってね」
「で、お前は?」
「何ともなかった」そう答えてから、私のことを悪魔の血の持ち主だと半分冗談で言ったのは、父の友だちだったのだと話した。医者の考えは、蛇は最初に咬んだときに毒を使い果たしたので、私に影響を与えるほどの毒は残っていなかったのだということだったが、父の友だちたちはそんなことは信じなかった。七匹ものスズメバチに刺されたこともあると、私はアンゲリカに話した。ここではマタ・カバーリョ、〈馬殺し〉と呼ばれる蜂だ。医者はもうだめだろうと判断した。ところが私は熱を出しただけで数日後には元気になっていた。
 アンゲリカがこれほど熱心に話を聞くのを見るのは、初めてのことだった。一言も聞き逃すまいとでもいうように、頭を少し傾けて聞いていた。「わしも一度蛇に咬まれたことがある」彼女は言った。「仲間はもうだめだろうと思った」彼女はしばらく黙って考えこみ、それから顔にしわを寄せて控えめな笑みを浮かべた。「その蛇は先に誰かを咬んで毒を使っちまってたんだって思うかい?」
「きっとそうね」老いて弱々しい彼女の手に触れながら、私は言った。
「わしも悪魔の血の持ち主かもしれん」アンゲリカは笑みを浮かべながら言った。あまりに弱々しく、あまりに年老いて見えたので、彼女が影の間にそのまま消えていってしまうのではないかと、私はつかの間感じた。
「わしももう歳だ」彼女は私を見ると、そう言った。私が感じたことを大きな声で言ったかのようだった。「とっくの昔に死んでてもいいところなのに、死が迎えにやってくるのをまだ待たせてあるのさ」**032**そして向きを変えると蟻の列を見た。蟻たちは次々に葉を四角く切り取っては口に加えて運んでいき、藪はどんどん小さくなっていった。「わしには分かったよ、お前がわしを仲間のところに連れて行ってくれるんだってね。お前を見た瞬間に、そいつが分かったんだ」長い沈黙があった。言いたいことがないというわけでも、言葉を探しているというわけでもなかった。唇にかすかな笑みを浮かべて彼女は私を見ていた。「お前にも分かったにちがいない。でなきゃ今ここにいるはずがないからね」やがて確信に満ちた様子で、彼女はそう言った。
 私は神経質に笑った。アンゲリカは、その目に潜む強力な輝きで、いつも私を落ち着かない気持ちにさせるのだ。「よく分からないな、自分がここで何をしてるのか」私は言った。「どうしてあなたと一緒に行くことにしたのかも分からないし」
「ここに来ることになってたってことを、お前は知ってたはずだよ」アンゲリカはなおも言った。
 神のみが知る目的地へと向かう旅の途中、自分がなぜジャングルにいるのか、私にも分からないことだったのだから、彼女の言うことに同意するのは実に簡単なことだった。けれど、アンゲリカのあまりに確信に満ちた様子に、私は何か言ってやりたくなった。「本当のところ、どこかに行こうなんて気は全然なかったの」私は言った。「憶えてるでしょ、友だちが上流にワニ狩りに行くのについていこうと思ってたのに、それだってやめにしたんだから」
「それこそわしが言ってることじゃないか」物分かりの悪い子どもに言い聞かせるかのように、彼女は言った。「狩りに行くのをやめる口実を見つけて、それでお前はわしと来れるようになったんだ」骨ばった両手を彼女は私の頭に置いた。「わしの言うことを信じるんだ、わしにゃ考える必要なんてほとんどなかったんだ。お前だってそうさ。わしが両目をお前の上に置いたときに決まっちまったことなんだから」
 笑いを隠すために、私は頭を老婆の膝に埋めた。彼女を納得させる方法などありはしなかった。それどころか、彼女のほうが正しいのかもしれない。何しろ私は自分でも説明のつかないことをしているのだから。
「長い間、待ってたのさ」アンゲリカは続けた。「お前が来ることになってるってことも、ほとんど忘れちまってた。だけど、お前を見た途端に分かったよ、あの男の言ってた通りだったってね。男の言葉を疑ったわけじゃない。ただ、言われたのがあまりにも遠い昔のことだったから、チャンスを逃しちまったものと思い込んでたのさ」
**033**「男って?」彼女の膝から頭を上げて私は聞いた。「誰が言ってたの、私が来るなんて?」
「その話はまた別のときにするさ」アンゲリカはかごを近くに寄せ、キャッサバ・パンの大きな一切れを取り出した。「食べたほうがいい」そう言い足すと、サーディンの缶詰を開けた。
 取りつく島もなかった。一旦アンゲリカが喋らないと決めたら、考えを変えさせるすべはないのだ。好奇心は満たされなかったが、よく太ったサーディンがとろっとしたトマトソースの中にきれいに並んでいるのを見ることで、私は気を紛らわした。この手の缶詰はロス・アンジェルスのスーパーマーケットで見たことがある。友だちが飼い猫のためによく買っていたものだ。私はサーディンを一つつまみあげると、平らな白いパンの上に潰して伸ばした。
「ミラグロスはどこにいるのかな?」私はそう言うと、サーディン・サンドにかぶりついた。なかなかいい味がした。
 アンゲリカはそれには答えず、かといって食べることもしなかった。時折ひょうたんから水をすすった。口の端にかすかな笑みが浮かんでおり、その目に表れる何かを求めるような表情を見て、どんなことを考えているのだろうと私は思った。突然、夢から覚めたかのように彼女は私を見た。「ほら、見るんだ」そう言って私の腕を押した。
 私たちの前に一人の男が立っていた。二の腕に巻いた赤い綿の糸と、包皮を一周し腰の周りに巻きつけてペニスを下腹に固定しているひも以外は裸だった。全身に赤茶色の模様が描かれ、片手に長い弓と数本の矢、もう一方の手にはマチェーテを持っていた。
「ミラグロス?」初めの驚きから立ち直って、ようやく私は口の中で言った。それでも、まだ彼だという確信が持てないほどだった。裸だというばかりではない。前より背が高く、ずっと筋肉質に見えた。赤いジクザクの線が、額から両頬へ、そして鼻の上を横切り、また口の周りにと描かれて、顔の輪郭を鋭くし、傷つきやすい印象を消していた。**034**見かけの変化だけではなく、言葉ではうまく説明できない何かがそこにはあった。〈理性の人〉の衣を脱ぎ捨てることで、目には見えない贅肉をそぎ落したかのようだった。
 ミラグロスは大きな声で雄叫びを上げるように笑い出した。体の奥深くから沸き上がってくる笑いに、彼の全身が震えた。その声は森の中を響き渡り、こだまして、驚いて飛び立ったオウムの群れの鳴き声と溶け合っていった。ミラグロスは私の前にしゃがみ込み、急に笑うのをやめて言った。「俺だとは、ほとんど分からなかったな」そして、鼻と鼻がくっつくほど私の顔の近くまで自分の顔を近づけると、聞いた。「お前の顔にも模様を描いてやろうか?」
「ええ」そう言いながら、私はナップサックからカメラを取り出した。「でもその前に一枚写真を撮ってもいい?」
「そいつは俺のカメラだ」強調してそう言うと、彼はカメラに手を伸ばした。「俺のために布教所に残してきてくれたものと思ってたが」
「先住民族の居住地にいる間、使いたいと思ったもんだから」カメラをどうやって扱うかを彼に見せようと、フィルムを入れるところから私は始めた。彼はとても熱心に説明を聞き、分かったかどうか私が確認するたびに、頭を縦に振ってうなずいた。彼が混乱してくれたらと思い、操作上のこまごまとした点まで一つ一つ説明した。「じゃあ、あなたの写真を一枚撮りましょ、そうすればカメラをどう構えればいいか分るでしょ」
「いや、だめだ」素早く私の動きをさえぎると、私の手からカメラを取った。いとも簡単にバックカバーを開けると、フィルムを取り出し光に当ててしまった。「これは俺のだ、約束したろう? これで写真を撮ることができるのは俺だけだ」
 私は言葉もなく、ミラグロスがカメラを胸にぶら下げるのを見ていた。裸の姿にはあまりにちぐはぐだったので、笑いをこらえることができなかった。彼は大袈裟な仕草で焦点を合わせ、露出を調整し、周りの至るところにカメラを向けた。想像上の被写体に話しかけ、笑って、もう少し近くに、少し向こうに行って、などと指示を出した。**035**彼の背中で揺れている矢じり入れと火起こし用の錐は、首の周りに巻いた綿の紐に吊ってあった。その紐を引っ張ってやりたいという強い衝動に、私は駆られた。
「フィルムがなくちゃ写真は取れないわ」私はそう言って、三番目の、つまり最後のフィルムを彼に渡した。
「写真が撮りたいなどとは一言も言ってないぞ」満足気にフィルムを光に当ててしまうと、彼は実に慎重にカメラを皮のケースにしまった。「先住民属たちは写真に撮られるのを好まん」真顔でそう言うと、地面に置かれたアンゲリカのかごに向き直り、その中身を探って、獣の皮で封をした小さなひょうたんを取り出した。「これがオノトだ」そう言って赤いペーストを私に見せた。油っぽく、言い表しようのない、かすかな香りがした。「命と喜びの色だ」彼は言った。
「服はどこに置いてきたの?」木のつるを自分の歯で鉛筆の長さほどに噛み切っているミラグロスに私は聞いた。「この近くに住んでるの?」つるの片方の端を噛んで間に合わせのブラシを作るのに没頭して、彼は答えようとしなかった。オノトに唾を吐き、赤いペーストが柔らかくなるまでブラシで混ぜている。彼は正確でむらのない筆さばきで、私の額を横切り、そして頬、あご、首と、上から下に波を描き、また目の周りには円を、そして両腕は丸い水玉で飾った。
「この辺りに先住民族の居住地があるの?」
「いや」
「一人で住んでるの?」
「どうしてそんなに質問ばかりする?」顔に描かれた鋭い線が、うんざりした表情を際立たせ、いらいらした声の調子を強調した。
 二人のことを知るのは自分にとって大事なことで、よく知ればそれで気持ちが落ち着くのだと言いたかったのだが、私は口を開け、声を出そうとしたところでためらってやめた。「好奇心旺盛になるように訓練されてるのよ」少しして私はそう言った。つかの間の不安を紛らわすために質問をしているのだということが、彼には分ってもらえないだろうと私は感じたのだ。私は二人のことを知ることで、状況が自分の手の中にあるという感覚を少しでも保てるのだと、考えた。
 私が言ったことなどすっかり忘れた様子で、ミラグロスは笑みを浮かべながら、私を少し納得がいかないといった顔で眺め、顔に描かれた模様の出来を確かめると、大声を出して笑った。幸せそうな、さもおかしいと言ったその笑いは、まるで子どものようだった。「金髪の先住民族だ」目の涙を拭いながら、彼は言った。
 一時的な不安はどこかに行ってしまい、私はミラグロスと一緒に笑った。彼は急に笑うのをやめると、私の方に体を寄せて、小さな声で私の耳に何か囁いた。「お前の新しい名前だ」真顔でそう言うと、私の口に手をかぶせ、私がその名を言おうとするのを止めた。アンゲリカに向き直ると、彼女の耳にもその名を囁いた。
 食事をすませるとすぐに、ミラグロスは自分についてくるよう身振りで示した。足の豆のことは気にせず、私は手早くスニーカーを履いた。いくつもの丘を登り、何度も平地に下りしながら歩いていく間、緑以外の何物も目にしなかった。木のつる、枝、葉、そしてチクチクと刺す棘が、果てしもなく続く。そこはずっと薄闇の時間帯だった。葉と葉の間にかいま見える空を探して、上を見上げることはもうしなかった。水溜りと小川に反射する空を見ることで私はよしとした。
 バース氏が、ジャングルというのは想像もできない場所なのだと言ったのは、まったく正しいことだった。どことも知れぬ目的地へ向けて、終わりのない緑の中を自分が歩き続けているということが、私には信じられなかった。私の心は想像の翼を広げ、人類学者の記述にある文明化されていない部族に属する勇ましくも非友好的な先住民族たちのことを思った。
 私の両親の知り合いには、アマゾンのジャングルに行ったことのあるドイツの探検家や科学者がいた。彼らが語る首狩り族や人食い族の話を聞いて、私は子ども心に当惑した。彼らは決まって絶体絶命の事態に陥った話をし、病気の先住民の命を救ったことで、その危険な状況から抜け出すことができたと語るのだ。そして、病気にかかっているのは大抵、部族の長か、その親族なのである。一番深い印象が残っているのは、あるドイツ人の夫婦とその幼い娘の話だ。彼らは南アメリカのジャングルを通り抜ける二年の旅から戻ったところで、その旅の間に集めた先住民族の品々と実物大の写真を見たのは、私が七歳のときだった。私は八歳になる彼らの娘にすっかり惹きつけられてしまった。カラカスのシアーズビルのロビーに作られた、椰子で飾りつけられた部屋を、私は彼女のあとをついて歩いた。アルコーブの暗がりへと彼女が急いだので、壁に吊られた弓矢、かご、矢筒、羽根、そして仮面などをゆっくりと見ている時間はなかった。少女は床にしゃがみ込むと、積まれた椰子の葉の下から赤く染められた木の箱を取り出し、首からぶら下げてある鍵でその箱を開けた。「先住民族の友だちがくれたのよ」そう言って、しわだらけの小さな首を取り出した。「ツァンツァって言うの。敵の首を干して縮ませたもの」そう付け足すと、人形を撫でるように、その黒く長い髪を撫でた。
 ジャングルにいて怖いと思ったことはないと言い、両親の話は実際とは違うのだと彼女が語るのを聞いて、私は心打たれた。「先住民族たちはちっとも恐ろしくなんかないの」とても熱心に彼女は話した。大きな目で真剣に私を見る彼女の話を一瞬たりと疑ったりはしなかった。「優しくて、よく笑うし、私の友だちよ」
 少女の名前は思い出せなかったが、彼女は両親と同じ出来事を経験しながら、両親が持っていた先入観や恐怖心にはとらわれなかったために、別の体験をすることになったのだ。私は思い出し笑いをしながら、滑りやすい苔におおわれた曲がりくねった木の根の上で、危うく転びそうになった。
「ひとり言を言ってるのかい?」アンゲリカの声で私は我に返った。「それとも森の精に話しかけてるのかい?」
「精霊なんているの?」
「もちろんさ。精霊たちは、このジャングルの中に住んでおるのさ」穏やかに言いながら、自分の周りを身振りで示した。**038**「這い登る蔓の茂みにも、猿や蛇、蜘蛛やジャガーと一緒にもおるのさ」

「今夜は雨は降らない」空気のにおいを嗅ぎながら、ミラグロスは言い切った。私たちは浅い川に沿って並ぶ、いくつかの大きな岩の横で足を止めたところだった。向こう岸に衛兵のように立ち並ぶ木が散らすピンクの花が、穏やかに澄んだ水の上を飾っていた。私は靴を脱ぐと、痛む足を心地よく冷たい水に浸した。空を見上げると、金色の夕焼けが、茜色、真紅へと徐々に色を変え、やがて深い紫に空を染めつくした。夕暮れ時の湿った空気が、森の香りで鼻を満たした。土の、命の、そして腐食のにおいがした。
 辺りがすっかり影に包まれる前に、ミラグロスは木の皮を裂いてハンモックを作り、その両端には木のつるを縄代わりにつけて、吊り下げられるようにした。お世辞にも快適には見えない木の皮のゆりかご二つの間に、自分の綿のハンモックが吊られるのを見て、私はほっとした気持ちを隠せなかった。
 期待に胸をふくらませながら、ミラグロスが背中から矢筒と火起こし用の錐をほどいて外す様子を私は目で追った。ところが彼は、矢筒に封をしている猿の皮を外すと、マッチ箱を取り出してアンゲリカが集めた焚き木に火をつけたので、私は本当にがっかりした。
「猫のえさね」ミラグロスがサーディン缶を開けて渡してくれたことに、私はがっかりして言った。仕留めたばかりのタピアかアルマディロの肉をぱちぱちとはぜる焚き火の上でじっくりと焼き上げる、そんなふうに私はジャングルでの最初の夕食を想像していたのだ。くすぶる小枝は細い煙を上げるばかりで、小さな炎は周りを明るくするにも足りなかった。
 炎の薄暗い明かりで、アンゲリカとミラグロスの顔つきは劇的に変化した。頬のくぼみは影となり、こめかみ、盛り上がった眉の上、低い鼻と高い頬に沿った部分に、光が反射した。炎によって二人がこんなに似て見えるのはどうしてだろうと私は思った。
**039**「親戚同士なの?」あまりに似ているのを不思議に思いながら、結局私は聞いてみた。
「ああ、息子さ」
「息子なの!?」信じられぬ思いで私は言った。彼は五十歳台に見えたから、弟か甥ではないかと私は考えていたのだ。「じゃあ、マキリタレ族のハーフってこと?」
 二人は秘密の冗談を楽しんでいるかのように、くすくすと笑い出した。「いやハーフなんかじゃないよ」笑いと笑いの合間にアンゲリカが言った。「あたしがまだ仲間のところにいたときの子どもさ」他には何も言わずに、彼女は自分の顔を私の顔へと近づけ、挑戦的であると同時に困惑しているかのような表情を浮かべた。
 彼女の射るような視線のもとで、私は居心地が悪くなって、体を動かした。私の質問で彼女は気分を害しただろうか。好奇心が第二の習性になっているのだから、と私は決め込んだ。二人のことなら何でも知ってやろうと私はやっきになっていたが、彼らは私について何も聞いたりしなかった。彼らにとって意味のあるのは、私たちが一緒に森にいるということだけのようだった。布教所でもアンゲリカは、私がどんな人間なのかということに関心を示さなかった。また、布教所での暮らしについてほんの少し話した以外は、自分のことをわざわざ知らせることもなかった。
 空腹が満たされると、私たちはハンモックに入って体を伸ばした。アンゲリカと私のハンモックは火のそばに吊るされている。足をワンピースの中で組んだ姿勢で、彼女はじき眠りについた。空気が冷たかったので持ってきた薄い毛布をミラグロスに勧めると、彼は喜んで受け取った。
 土ボタルが炎のように点々と濃い闇に明かりを灯した。コオロギと蛙の鳴き声で夜はざわめいていた。眠れなかった。疲れてはいたが、気持ちが落ち着かず、リラックスすることができなかったのだ。腕時計の光る文字盤を時計の針が動いていくのを眺め、もはや聞き分けることのできないジャングルの音を聞いて時間を過ごした。うなる生き物、笛のように鳴くもの、きしむような音を立てるもの、遠吠えするものがいた。影がハンモックの下を滑っていき、時間そのもののように音も立てずに動いた。
**040** 暗闇の中もっとよく見ようと、私は座ってまばたきをした。眠っているのか起きているのかもはっきりしなかった。シダの後ろから、冷たく光る目を持つ猿が飛び出してきた。頭の上の枝には、低く唸りながら私に向かって歯を見せる獣がおり、髪の毛のように細い脚をした巨大な蜘蛛が私の目の上に銀色の糸を落とした。
 見れば見るほど恐怖感が募った。裸の人影が弓を構え、黒い空に向かって狙いをつけているのを目にして、冷や汗が首から背骨の付け根まで滴るのを感じた。矢が飛ぶ音をはっきりと耳にしたときには、叫びを抑えるため口を手でおおわなければならなかった。
「夜を怖がっちゃいかん」ミラグロスがそう言って、私の顔に手を置いた。肉厚で、固くなった手からは、土と木の根のにおいがした。彼は自分のハンモックを私のハンモックのすぐ上に吊るした。木の皮のひも越しに彼の体のぬくもりが感じられるほどの近さだった。
 目を覚ましたときには、ミラグロスのハンモックはもう私のハンモックの上になかった。夜の音はもはやかすかになっていたが、それでも、露に濡れた椰子、竹、名もないつる植物、そして寄生樹の茂みの間にその名残りを感じた。空にはまだ色がなく、けれど、そのおぼろな透明感が雨のない一日の始まりを予告していた。
 アンゲリカが焚き火の前に屈み込んで、焚き木をくべ、熾きに息を吹きかけ、火を起こしていた。微笑みながら私に近くに来るよう手招きをした。「夢の中でお前の声を聞いたよ」彼女は言った。「怖かったのかい?」
「夜の森はずいぶん違うのね」少し戸惑いながら私は言った。「疲れすぎたんだと思う」
 うなずきながら彼女は言った。「そこの光を見てごらん。葉っぱから葉っぱへと、そして地面へと、眠っている影に降りていくまで、光がどんなふうにきらめいているか、その様子をね。そいつが夜の精を眠りに導く道なんだ」**041**アンゲリカは地面を覆う木の葉を優しく撫でた。「昼の間、影は眠る。そして夜になると、また暗闇の中で踊るのさ」
 何と言っていいのか分らず、私は戸惑いながら笑った。「ミラグロスはどこへ行ったの?」しばらくして私は聞いた。
 アンゲリカはそれには答えず、立ち上がって辺りを見回した。「ジャングルを怖がらないことさ」彼女は言った。両腕を頭の上に上げ、少しぎくしゃくした足取りで踊りながら、唱いを始めた。初めは低く単調に唱い、そして急に調子が高いものに変わった。「夜の影と一緒に踊り、軽い気持ちで眠りにつくのさ。影に怯えたままでいたら、やられちまうよ」彼女の声はだんだん小さくなり、ついには呟きになった。私に背を向けると、川へ向かってゆっくりと歩いていった。
 流れの中ほどに裸の体を沈めると、水は冷たかった。澄んだ水が朝一番の光をたたえている。私はアンゲリカが焚き木を集めるのを眺めた。彼女は子どもを抱くかのように、曲げた腕に一本いっぽん木の枝を置いていった。私は髪の毛のシャンプーをすすぎながら、見かけより力があるんだなと思った。けれど、見かけほど年を取ってないのかもしれない。先住民属の女性は三十になれば孫がいてもおかしくないと、コリオラーノ神父が言っていた。四十になれば老人と見なされるのだ。
 私は着ていた服を洗うと、焚き火の近くに棒を立てて干し、ほとんど膝まで届く長いTシャツを着た。ぴっちりとしたジーンズよりよほど快適だった。
「いい匂いがするね」私の濡れた髪を指ですきながら、アンゲリカが言った。「あのボトルが匂いのもとかい?」
 私はうなずいた。「あなたの髪も洗ってあげましょうか」
 少しの間ためらってから、彼女はワンピースを素早く脱いだ。彼女の体はとてもしわだらけで、なめらかな肌はほとんどなかった。その姿は、通ってきた小径沿いに生えていた弱々しい木々の一本を思わせた。ほとんど枯れかけて見えるその細い幹から、それでも緑の葉をつけた枝が何本か伸びていた。**042**彼女は昼も夜も綿のワンピースを着ていたので、それまで私は裸の彼女を見たことがなかった。四十歳以上なのは間違いなかった。自分で言っていた通り、彼女はとても年寄りなのだ。
 アンゲリカは水の中に座り込み、泡を頭から体中に広げると、水しぶきを一面に上げながら、大喜びで大きな声を出し笑った。割ったひょうたんで石けんをすすぎ、薄い掛け布で髪を拭いてあげてから、彼女の黒く短い髪を斜めのおかっぱに櫛で整えた。「鏡がないのが残念ね」私は言った。「私の顔、赤い模様のこってるかな?」
「ちょっとだけだよ」アンゲリカは言って、焚き火に近づいた。「ミラグロスにまた描いてもらわんと」
「すぐ私たち煙のにおいにもどっちゃうね」私はそう言うと、アンゲリカの木の皮で作ったハンモックに向かった。中に入り楽な姿勢を探しながら、よくこの中で落ちずに眠れるものだと思った。長さは私がなんとか寝られる程度で、幅は寝返りを打つこともできないほどだった。しかしながら、木の皮で背中や頭がちくちくするにもかかわらず、集めた焚き木を老婆が長さを揃えて折っているのを見ているうちに、私はうとうとと寝入ってしまった。
 奇妙な重たさのために、私は目が覚めているのでも眠っているのでもない意識のはざまの状態に入り込んでしまっていた。閉じた目ぶた越しに太陽の赤い光が感じられた。アンゲリカが私の左手にいて、火に焚き木をくべながらひとり言を言っているのが聞こえた。そして私を取り巻く森が、その緑の洞窟の奥底へと私を引っ張りこんでいくのを感じた。老婆の名を呼んだが、唇から音は出なかった。何度も繰り返し呼ぼうとしたが、音のない形が私から滑りだしていくばかりで、それが風に吹かれて上に上がり下に落ちる様子は、死んでしまった蝶のようだった。言葉たちは唇とは関係なくお喋りを始め、知りたいという私の欲求を真似て幾千もの問いを発した。言葉の群れは私の耳の中で爆発し、空を渡る一群のオウムのように、残響が私の周りに響き渡った。
 毛の焦げるにおいを感じて、私は目を開けた。**043**焚き火の上、一フィートほどの高さに、ロースト用の台が大雑把に作られ、その上で猿が一匹、手足も尾もついたまま横たわっていた。私は物欲しげな気持ちで、アンゲリカのかごに視線をやった。そこにはまだサーディン缶もキャッサバ・パンもたくさん残っている。
 ミラグロスは私のハンモックで寝ていた。弓は木に立てかけてあり、矢筒とマチェーテは地面に置き、手の届く範囲に揃えてあった。
「獲物はこれだけなの?」ハンモックから降りながら私はアンゲリカに聞いた。そして、用意ができたりしなければいいのにと思いながら、つけ加えた。「あとどのくらいで焼けるの?」
 アンゲリカは見間違えようのない、意地悪な満足の笑みを浮かべて、私をじっくりと見た。「もうしばらくだよ」彼女は言った。「サーディンより気に入ると思うがね」
 ミラグロスが手で猿をばらし、私には一番のご馳走である頭を取り分けてくれた。ひびの入れられた頭蓋から脳みそをすする気になれず、代わりによく焼けたもも肉を一切れ貰った。肉は筋張っていて固い。老いた野鳥のような、少し苦い味がした。ずいぶん大げさな満足感を表しながら脳みそを食べ終わると、ミラグロスとアンゲリカは次に内蔵へと食事を進めた。内蔵は一つ一つ扇型の丈夫な葉でくるんで、熾き火で焼いてあった。二人は一切れずつ、灰につけてから口に入れた。私も真似をしてもも肉に灰をつけて食べた。塩気が増しておいしく食べられるのにびっくりした。食べ切れない肉は、葉にくるんで、つるでしっかりと結び、次の食事用にアンゲリカのかごにしまった。

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[フロリンダ・ドナー「シャボノ」第四回]

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